再生への旅

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zoom RSS 今日の行雲流水・「越前御誕生寺という大緑蔭」

<<   作成日時 : 2015/05/23 15:38   >>

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雲の心水のこころや夏に籠る 玉宗

先日来から弟子の住職登録の披露挨拶に教区の御寺院を訪問して歩いた。

最終日は越前の御誕生寺を拝登し、板橋禅師様を訪ねたのである。雲ひとつない晴天。日差しは紛れもなく夏のもの。境内には参拝者の日陰用にとテントが設営されていた。私が安居していた頃に企画された千年の森の植樹の木々も大きく育っており、宛ら、大緑蔭の趣きである。

禅師様には弟子の得度式の折も、首座法戦式の折も出席して下さっている。披露の挨拶を欠かす訳にはいかない。いづれ晋山式も挙げなければならない。将来執り行う晋山式の期日も定めず、禅師様に出席して戴く約束をして来たのであるが、御本人は来年でもいいよ、と宣う。いきなりそうのように言われて戸惑ってしまった。まだ晋山式の準備などしていないのだから。

小さなお寺ながら節目節目で行事を営んできた。弟子の晋山式もまた師匠である私にとっては大きな仕事のひとつである。まあ、最後の仕上げといってもよいのかもしれない。それはそうなんであるが、晋山式を挙げたからそれで一人前というには、わたし的には如何にもお目出度いことではないかと思っている。自立して生きていけるかどうかは、日々の誤魔化しの利かない自己の究明如何に掛っている。日々の積み重ねである。今、ここの脚下照顧を徹底できなくて、自立もへちまもないだろう。晋山式は一つの通過点である。どうでもいいという訳ではないが、誤解を恐れずに云えば晋山式をするためにお坊さんになったのではない。

一生、お寺に入らずに僧堂に死んでも構わない、といった気概が欲しいのである。お寺云々は結果、というか縁の然らしむるところなのだといった潔さがなくてはならない。自坊のような弱小寺院では尚更の事で、少ない壇家さんだけに支えられていこうなどとは夢々思わないでほしい。後継となったのはいいとしても、これからの寺院を巡る社会情勢、風潮を考え合わせたとき、決して安穏ではなかろうし、三宝護持の鼎が揺るぎないと思うのは妄想に等しかろう。

まあ、いづれにしても住職次第である。本人次第である。檀家のない御誕生寺が宗門には稀なる存在となり、明日の僧侶を打出し、多くの有縁無縁の信者に支えられ、癒しを与えている典型がある。それもこれも、板橋興宗という禅者ひとりの存在があるからこそである。その人徳、仏徳、法の潤いは、当に現代社会の大きな木陰。大緑陰であると言って過言ではなかろうと私は思っている。弟子にも、その法縁に触れ、連なり、目覚めてほしいという願いがある。


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「行つたり来たり」

夏蝶の行つたり来たりして行きぬ

大海月肩身を狭くして浮かぶ

ジャンケンに負けて毛虫を焼くことに

尺取りの測りかねたる枝の先

源五郎駈けだすやうに泳ぎ出す

貰ひたる米の山より米の虫

くちなはの出会ひがしらがあるばかり

舟虫に知らんぷりして沖を見る

群れを出て少し大きくなる目高

押されたる眼白が枝を零れけり


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「風のかろさ」

雪渓の見ゆる窓辺の汽車に乗り

麦秋や僧となる子と旅をして

代掻いて越前平野水浸し

生まれ変はるための半生更衣

拘りのなくて些か黴臭き

単衣来て風のかろさの命かな

緩めたる襟の奥まで夕焼して

聖みな人里離れ谷うつぎ

落日やニセアカシアの海道に

平らかな野に一椀の青葉山

千里浜の沖に控へし青葉潮




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「雑然と」

身の毛のよだつ音して落つる蚣かな

雑然と散らばってゐる薄暑かな

大勢は変はらず昼寝したものの

水中花今更だれを信じろと

夜に紛れ瀬音にまぎれ鵜飼舟

赤腹や死んだふりして裏返り

白玉や嘘も隠しもできぬ日の

ハンカチが他意ある如く忘れあり

黒南風の沖に影して竹生島

これ見よがしに呑んでみせたる蝮酒














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