再生への旅

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zoom RSS その日暮らしの仏様

<<   作成日時 : 2015/06/18 19:12   >>

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こだわりのなくていさゝか黴臭き 玉宗

先日、輪島市門前町老友会の一行三十名が永福寺を参拝した。
顔見知りの方々ばかりだったが、旧輪島市の永福寺を門前町の興禅寺の住職が兼務しているということもあって、スケージュールに組み込んでくれたのだろう。
約百年前に門前町にあった永福寺が輪島市に移転した経緯や本尊の由緒などをお話しさせて戴いた。

また、永福寺は檀家というものがなく、仏様を慕ってお参りする多くの信者さんに支えられて今にあるということ。ご本尊は文化財になっても不思議ではない由緒と古さを兼ね備えてはいるが、お寺、そして本尊というものは実際に日々お参りし、手を合わせてくれる人の為にあるのであり、文化財云々といった付加価値は二の次であるということ。檀家がなくても、お坊さんとしてやるべきことをやり、してはならないことはしない生き方を志していれば、ちゃんと喰わせてもらえるということ。お坊さんがお葬式や法事をするのはそれだけを目的としているのではなく、いのちをどういただき今を生きるかということに専念してる人間が任された一つの方便なのであるということ。仏に手を合わせ、仏の方を向いて生きていこうということは、取りも直さず、一度限りの今生の命をまっすぐ、よそ見をせず戴くことを誓ったということであり、今に落ち着き、戴くことができなくて、どうして死を従容と頂き、人生をつとめあげる事ができるだろうか。一期一会の、比べることもいらない、ほとけのいのち、お大事に。

といったようなことを述べたのであるが、傍らで見ていた夫人が皆さんが帰ったあとで、感想を漏らすのであった。

「おとうさん、いつになく熱弁で、いいこと話していたわね。なんか、のめり込んでいたわよ」

夫人が撮った写真をみると如何にもその通りで、われながら身ぶり手ぶりの激しい説教ぶりではあるなと知らされたことである。

一行はその後、NHK朝ドラ「まれ」の舞台である間垣村へと向き合ってバスに乗って行ったのであった。


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先代の住職が記した永福寺由緒は以下の通りである。

鳳来山永福寺移転統合百年略史

一、旧鳳来堂由緒

およそ千二百五十年前、即ち人皇四十六代孝謙天皇の天平勝寶七年、泰澄大師能登国御巡教の際、異僧の御告げにより阿弥陀如来を石刻し、念持佛の由緒深き如意輪観世音菩薩と共に大屋の庄横川の地(現輪島市鳳至住吉神社北辺)に一宇を創立し、諸佛を安置し鳳来山誓願寺と号す。
それより八百二十年間余り真言律院として法燈を続照せり。

御佛の霊験日々新たにして遠近の道俗、祈願佛として順礼祈願者多く、時の領主長谷部信連帰依ありて祈願寺として七堂伽藍装備の大寺院たりしが、正新町天皇の天正年間、騒乱の際不幸にも火災に罹り一山尽く、諸記録等悉く烏有に帰し只御佛のみ残り給えり。

其の後、再興を発願するものなく三百年余り廃絶の悲運に沈淪し只仏像のみ民間にて守護し来るに過ぎざるしを以て、光明天皇の安政年間に至り、信者相謀りて鳳来山麓荒蕪の地三百歩を開拓して、明治六年漸く一宇を建て、遷座奉安供養を厳修し、明治八年五月二十三日鳳来堂と命名せしも只雨露を凌ぐのみの粗屋なり。

二、旧永福寺由緒

旧永福寺は曹洞宗大本山総持寺五院の一なる傳法庵の門中塔司寺なり。
開山可屋良悦禅師。其の後世代十二世を経、徳川幕末に五院廃寺とせられたる時、多くの塔司寺も殆んど廃寺となりしも、該寺は本山門中直末寺に編入せられ来たり。明治三年妙応寺住職百衲玄秀和尚十三代目として継承し法地開闢す。輪島町鳳至の阿弥陀仏堂へ寺籍を移籍する迄、即ち明治四十一年迄、実に文明十二年の開闢より凡そ四百二十年余り本山の膝元に在て御霊塔に奉仕し来たりし古刹なり。

三、永福寺鳳来堂移転統合記 
 
鳳来堂はその昔、誓願寺の本尊佛を守護し来たり。安置堂は小宇なりとも霊験明らかなること近郷の民草広大なる慈恩に浴せざる者なかりしが誓願寺廃絶後誰一人再興を発願するものなし。
降りて中御門天皇の享保三年戍戊(一七一八年)六体の地蔵尊を石に刻して本尊佛脇立として三昧摩地に安置せり 孝明天皇の安政年間に至り信者相謀りて鳳来山東北の麓荒蕪の地三百歩を開拓して明治六年漸く一宇を建立し誓願寺の遺佛を奉安し(明治八年五月二十三日)鳳来堂と名付け朝夕之を供養せり。亦、如意輪観世音菩薩は誓願寺廃絶後住吉明神の社境に於いて一時崇め奉り、当国三十番札所として順礼道者巡拝せり

年降りて住吉の小堂も朽ち果て、時の肝煎真酒屋清左エ門に預け置きしに、当地に種々怪しき災変あり 御郡奉行村井安左エ門なる人 妖は徳に勝たず邪を拒くに善を為すに如かず 此処に霊威の神仏あらんやと 依って人々予ねて承り伝えし御仏の事を申し 直に只今鳳来山公園に所在する観音堂を建立し安置し奉るに 不思議なるかな変災たちどころに鎮まり霊験昔日に異ならず 此れ享保十六年の事なり

明治六年に至り信者等の協力により一堂を建立す。 
然れども単なる御堂にして寺号なきを憂い 茲に請願寺復興の念漸く厚く、依って明治十七年八月二十五日堂宇据居許可を出願せり 時の県令より下附せられて同日より阿弥陀佛堂と公称せり
同四十年一月再び寺号移籍を大本山総持寺へ請願す 同年十一月二日付廃合御添書を得て地方丁へ出願 茲に多年の懸案許可せらる。

明治四十一年五月一日移転認可を得る。旧永福寺は本山膝下を離れ山内寺院の格を解かれ、大本山総持寺直末となる 多年の念願たる移転問題も幾多の困難を経て現在地に法憧を建て復興の宿志を貫徹するに至りしは佛の霊験に依り佛慈加護を得たる雖も信徒等の努力も無形ならず、日夜寝食を忘れ釈尊一茎草を念じて梵刹を建立するの漢 黒夜に寥々たる星を見るより明らかに 真に其の功労偉大と云わざるべけんや    
                     昭和八年九月九日謹書  永福六世孝之




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「妙」

昼寝より妙に元気な父戻る

百合の花印象深く咲いてける

笹百合や嫁浚ひにゆく村の

蛍見へ手間取る妙な家族かな

青梅の日影ものなる頬寄せて

女三人ふたり静にかしずいて

しやうがない風に青鷺飛び立ちぬ

手つかずの夢がまだある草いきれ

氷売る男が妙にいきいきと

滝といふ不立文字が眼の前に

額の花星の弾けるやうにして

朝焼や生きてしあれば惨たりし

戰終れと甲板に立つアンタレス




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「蔑ろ」

蔑ろな顔して鮎を釣る男

妻とゐて駆落ちめきし河鹿宿

雨蛙雨の向かうに恋をして

烏柄杓誰も覗かぬ井戸があり

花南瓜蟻が溺れてゐたりけり

玉葱を吊るし帰省の子を待てる

常冷の巌さしぐみ雪の下

病葉や気の触れあへる音すなり

夕菅や暮れて帰らぬ子が一人

木苺に雨後の雫や下校の子


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「てのひら」

玉葱の置いたる如く顔を出し

金輪際トマトきらひな嫁貰ひ

味気ない音して胡瓜味はへり

桑の実や猿と渾名す昔あり

夏茱萸をふゝめば思ひだす美空

枇杷の種いさゝか大き過ぎぬかと

無花果のまだ知恵もたぬ青さかな

泣く子には勝てず李を捥ぐことに

てのひらのまだ幼きが杏欲る

乱暴にしないでねといふ早桃かな

楊梅のたわゝに空の暗きまで






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