再生への旅

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zoom RSS 無常という海原

<<   作成日時 : 2015/07/01 16:43   >>

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夏の宵日を呑み込みし昂りの 玉宗

(「拝啓、良寛さま」を編集するに当たって以前のブログを読み返した。今日から暫く、編纂に当たって取り上げた記事を補筆、訂正した上で再掲します。)


「無常という海原」

「眼横鼻直」という一つの生き方の典型がある。
「眼横鼻直」とは道元禅師が自ら仰られた自己の証契即通の端的、身心脱落の道得の一つである。仏法の様子を言うのに、目は横に鼻は直なることを以って足りているという。あたり前であることを受け入れることは迷っている者が迂闊に言うほどあたり前なことではないという現実がある。人間社会には迷っていることすら覚醒できないということがよくあるもののようだ。仏法という何かしら有難いものが自己の外に塊のようにあるのではない。まさに自灯明として自己の分際に明らかなものであるということ。そこを理屈ではなく、分別以前のいのちまるごとが肯ったということでもある。そのものをそのものとして目の当たりにする。一つになる。迷悟以前。凡聖以前。自他以前。比較以前。善悪以前。分別以前。説明以前。言葉以前。その様にしか言挙げ出来ないいのちの全き様子がある。

仏道はいのちの話のことである。誰のいのちか?それはだれでもない。私のいのちであり、仏道は自己の開明、決着であり、自問自答であり、よそ見をせずに真っ直ぐ自己を生き抜く、それだけの意義を人生の一大事とし、そのような生き方を引っ提げて社会へ還ってゆく。自己に決着できないものがどうして他者と折り合いをつけることが出来るだろうか。仏弟子の社会性とはそのようなものではなかろうか。市堀玉宗という、いてもいなくても無くてもなんの差し支えのないような人間もまたそのように生きていきたいと思っている。それが私の仏弟子としての理想であり、夢である。

無常に私の恣意を入れるような容赦はない。無常は私の都合に頓着しない。実にあっけらかんとしたものだ。取るに足りない私という存在を無きに等しいものとし、そしてときに拒むこともない世界でもある。歓喜の有頂天に眩しいこともある無常の世界。悔し涙に恨みたくなる無常の世界。生きている私にとって地獄でもあり極楽でもあり得る世界。ときによそよそしく、ときに微笑みかけて。無常、それは人の世の奈落ともなり、そして再生の拠り所ともなる。人生は倒れたところに足を踏ん張って何度も起き上がることのように見えて来る。危うく、儚い無常の海原にしか私の生きてゆくという志が通じるところはない。志がなければそれは生きながら死んでいるに等しい。そのような存在者である人間にとって死とは避けて通れない最後の褒美のように見えなくはない。

私の志、それは海鳴りに掻き消されるような代物である。そうではあるが、「今」にいのちの限りを尽くし、無常の流れに任せて生きてゆく。それ以外のどこに私の生きる場所・死に処があるのというか。そして人生の意義、生きる価値といったものがそれ以外のどこに見出せるというのだろうか。今日も無常の海原を泳いで行こう。何かに出会えるかもしれないといったささやかな夢を抱いて。まだ私には無常の沖があるようだから。



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「嗚呼」

うれしくてならぬと雨後の夏燕

二番子が犇めくわれを見下して

潮湿る風に抗ふ夏蓬

半夏生日を呑み込んで鬱々と

黴臭き猫が素通る夕餉前

嗚呼と鳴く梅雨の烏が閑さうに

はまなすの花や実となる旅の涯

萱草やまだ開けきらぬ沖つ風

また一人浜昼顔にきて唄ふ

黒南風に潮蠢く沖があり



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