再生への旅

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zoom RSS いのちの土俵・煩悩即菩提

<<   作成日時 : 2015/11/20 17:06   >>

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棺桶に敷くほど落葉掻き集め 玉宗

現代でもお坊さんが妻帯することに対して率直に違和感を抱いている方々が少なくないようである。お坊さんの中にもいるだろうし、又、妻帯を正当化するために宗旨を改変したような宗派も存在している。そこには衆生=煩悩。賢者=菩提。といった分かりやすく、いわば何の客観的証明もされていない前提が受け入れられてきている現実があろう。そもそもが、煩悩、菩提の因果関係さえコンセンサスを得ていないかのごときである。本質、定義を理解しないままに歴史を重ねている宗教という社会生活の領域がある。しかし、そのような次第はどの社会でもあり得る生きているいのちの実態ではなかろうか。

宗教もまた実際のところは可能性として機能したり、しなかったりしているのではなかろうかと思う訳である。

「煩悩即菩提」を検索すると以下のような解説が出てきた。

煩悩即菩提は、大乗仏教の概念の一つ。生死即涅槃と対で語られる場合が多い。
〈概要〉
原始仏教においては、煩悩を滅することに主題がおかれ、それにより覚りが得られるとされていた。
しかし、時代を経て大乗仏教の概念が発展すると、すべての衆生は何かしら欲求を持って生活せざるを得ず、したがって煩悩を完全に滅することは不可能と考えられるようになった。また煩悩があるからこそ悟りを求めようとする心、つまり菩提心も生まれると考えられるようになった。
したがって、煩悩と菩提は分けようとしても分けられず、相(あい)即(そく)して存在する。これを而二不二(ににふに)といい、二つであってしかも二つではないとする。これは維摩経に示される不二法門の一つでもある。

この色(しき、物質的)の世界は空であるが、それ自体がすべて真如の表れである。したがって悟りを妨げる煩悩も真如の一面から現れたものである。したがって煩悩を離れて菩提は得られない。また逆に菩提なくして煩悩から離れることはない。これが煩悩即菩提であるとする。

なお、煩悩即菩提といえば、矛盾する言葉が「即」でつながっていることから、煩悩=菩提、煩悩がそのまま悟りである、と考えられやすいが、これは誤解であり、危険と言われる本覚思想につながるため、間違いであると言われる。あくまでも紙一重、背中あわせで相対して存在しており、煩悩があるからこそ苦を招き、その苦を脱するため菩提を求める心も生じる、菩提があるからこそ煩悩を見つめることもできる、というのが煩悩即菩提の正しい語意である、と言われる。

『大乗荘厳経論』随修品に「法性(ほっしょう)を離れて外に諸法あること無きより、是の故に説く如く 煩悩即ち菩提なり」と説かれる。慣用句「この泥あればこそ咲け蓮の華」は、この煩悩即菩提を端的に表した一文である。[要


言うまでもなく現代の日本仏教界のほとんどは大乗仏教の流れを汲んで今にある。
上述を私なりに言わせて貰うならば、要するに「煩悩、菩提、どちらもいのちという土俵の話」であるということだ。「即」「不二」「一如」といった言葉は一体なるいのちのあり様を指し示している。煩悩や菩提といったものの空なる絶対性がそこに横たわり、引き継がれている。

煩悩の今には煩悩の世界が展開され、菩提の今には菩提の世界が展開され、どちらも今を限りとして来たり去ったりする如き様相を呈する。仏性ももまた無常なるものである。空なるものである。本来的に執着の埒外である。そしてまた、というかだからこそ、煩悩は善悪ではない。菩提は善悪ではない。善悪と二見に亘り執着の奈落に落ちる愚かな自己がいるということだ。煩悩が生きる力となるように、菩提もまた生きる力となろう。それは本来善悪の問題以前の話である。

迷っているのは誰か?今、私は迷っているのかいないのか?畢竟、菩提というも、煩悩というも他人事ではなかったのか?といった、内省が前提としてあってしかるべきではないのかな。なぜなら、仏法はわたしといういのちの土俵の話だからである。今、ここに、私という諸行無常の土俵がある。ここにあるのは、いのちそのものであり、煩悩という逃げるべきものではない。菩提という求めるものではない。煩悩や菩提がわたしのいのちという実際に先立ったり、引き摺られるのではない。今、ここ、あおのものは何ものにも染まってはいない。まことに、今といういのちまっさらな事実をありのままに、受け入れ生きることの困難さに思い至るのである。

即なるいのちの土俵を生きている。一如なるいのちの土俵に去来している。不二なるいのちの土俵に生死している自己。そのような自己を信じることができなくて何の仏道であろうか。煩悩とか菩提とかに拘り、論っている自己の疎かなる今を反省するに越したことはないと思う次第。



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「汁物」

冷えた体が納豆汁にした焦がし

一夜さの契りをこゝに河豚汁

蕪汁鵜呑みにできぬ京女

根深汁夜の男と煽てられ

仄々と越後訛りやのつぺ汁

三平汁母とはちがふ味がして

兎にも角にもけんちん汁となりにけり

粕汁や波の上ゆく夜の風

夕餉済ませば眠るばかりぞ干菜汁

闇汁や惚れし女に隣りして

狸汁清濁合はせ呑むやうに



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「良心」

落葉踏み一人帰つてゆくところ

綿虫や可も不可もなき一日の

謂はれなき熊とし生まれ餓ゑにけり

掃き寄せし塵の中より冬の蝶

狢来る夜の向かうに闇があり

良心を迫られてゐる兎の目

白鳥のうらさびしさが目に余る

冬鴎能登の荒海天を衝き

停戦の如くに鶴を抱いて来る

笹鳴きぬ手を拱いてゐたるとき

山眠るやうに死にたいだけのこと

遠ざかる星の速さに冬眠す

冬の空底の見えたる明るさの


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「あの世この世」

もうだれも信じられない兎の目

けふも又冬鳥一羽来て去りぬ

冬のゆふべは遊び足りない影を引き

好きなだけ着膨れて世に遠くゐる

目瞑ればこの世の終り石蕗の花

帰り花あの世もきつと込み合へる

伏して見る雪見障子の向かうかな

われなくてこの世よかりし冬芽かな

目に入れてやつぱり痛い綿虫で

ぎこちない男がひろふ落葉かな

笹子鳴く佳きことのまだあるやうに




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市堀玉宗第三句集『安居抄六千句』

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