再生への旅

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zoom RSS 今日の以心伝心・自己に親しむ

<<   作成日時 : 2015/12/01 17:35   >>

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白菜の重ね着したる重さとも 玉宗


師走になりましたね。師走の師はお坊さんのことだと聞いたことがあるが、どうだろう。まあ、私のような小さなお寺では走り回るというようなことは滅多にないので、師走といわれてもなあ、といった感じではある。世間では「ご多忙なことで」という挨拶が気の利いたことばのように罷り通っているが、お坊さんの世界ではどうなんだろう。そんな挨拶を受けると冷やかしか、嫌味に聞こえるのは私だけの僻み根性かな。世の中が忙しいそうにしていると尚更に無用の長物然としたがる自分がいる。実用的でない自分であることに改めて向き合わされる師走、十二月ではあるな。

ところで、僧堂では今日から臘八接心が始まっている。そこでは身も心も世の喧騒を離れた環境で坐禅ができる幸いがある。自己の真相に親しむ空間。日常生活とはいやがうえにも外に目を向けていなければならないが、ひとときなりとも、他に対しての自己ではなく、徹底おのれかぎり、今をかぎりの自己にまみえる幸いがある。出家とは世間を離れることであるが、つまりそれは欲望を離れることであり、虚論、喧騒を離れることでもある。勿論、それは自己の内に巣食う要素でもあるが、環境という自己と一体のものへのアプローチの仕方でもあろう。

人はいささかなりともそのような自己の絶対的な時間を欲しているはずであるが、いったん一人になるとじっとしていることに耐えられないのも現実である。坐禅という「行」もまた、なかなかに一人ではなしえないところがある。仲間の存在があってこそ自己を運び、他己を運び、運ばれる幸いがある。

なんのためにそんなことをするのかって?
本来の自己に親しむためでしょうね。常日頃、われわれは本来のところから宙に浮いているようなものである。菜にもしないでいる、いのちそのまんまの状態で目覚めている空間。偶にはそのような、思いを手放し、頭を冷やし、執着を棚上げにして、素なる自己という死ぬほど退屈な時間に真向かうのも悪くはないと思うのだが、どうだろう。一切有為の法の空しさに目覚め、作為のないところに生きる力が生まれてくる奇跡がある。いのちの洗濯っていうんですか。「行」とはつまりそのような「清浄」を手に入れる筋合いのもので、坐禅もまた例外ではないと思っている次第。


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「大波小波」

遍歴すおしくらまんじゆう出でしより

缶蹴りの鬼が鳴き出す雪婆

縄跳や大波小波おそろしき

竹馬の一人が沖を見てしまひ

綾取りの指が足りない父なりき

雑炊にもの足りぬまゝ満腹す

沢庵のざっくばらんな味ぞよき

風邪ひくな早く帰れと喧しき

冬鳥の遊び足りないやうにして

しぐるゝや味はひ深き顔をして



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「接心」

接心を控へし山の眠りかな

冬蝶の影を失くして地を歩み

木の葉一枚風に震へてゐたりけり

枯れてゆく野にかぎろひの尿をして

伏せ葱の首を擡ぐる里時雨

雪吊の空のあかるさ日暮れても

干大根白き山より風吹いて

底ひなき夜のしづけさ雪来るか

仏檀の奥より能登の雪起し

雪が来る前の仏間の暗さかな


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「冬安居」

月星を森の木立に冬安居

面壁の背なに雪来る音をきゝ

しはぶきのほかは音なき大伽藍

枯野道典座裏より始まれり

寒林に抱かれ仏となる暮らし

僧となる月日の木の葉時雨かな

生きながら死ねと云はれて悴める

十二月底の見えたる手応への

さ迷へる夜風とおもふ蒲団かな

目瞑れば風音ばかり冬安居

吹き溜まる落葉も釈尊成道会

暁の粥炊きにゆく寒さかな

聖みな山に抱かれて冬籠





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市堀玉宗第三句集『安居抄六千句』

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