再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 今日の羊頭狗肉・二足の草鞋を履くお坊さん

<<   作成日時 : 2015/12/04 15:47   >>

トラックバック 0 / コメント 0

画像


さびし世に零るゝばかり実南天 玉宗


曹洞宗全国一万五千ヵ寺の中で、二足の草鞋を履いておられるお寺さんはどれくらいいるのだろうか。輪島市内で私が知っている十数ヵ寺のお寺さんの中で、お坊さんだけをして暮らしておられる専業坊さんの方が遥かに少ない。どちらが副業で専業なのか解らない、などという問題は暫く置いておくとして、教師・役場職員・会社員・自営業・自治体職員・市議会議員などをしながらお寺を維持管理されているお坊さんがおられる。大学を終えて帰ってくるお寺の跡取りのために、檀家共々、その子の就職先を探しているというような話も耳にする。お坊さんが職業であるという一面を目の当たりにする。

そのお寺は檀家数からいっても、私の永福寺(檀家一軒)や興禅寺(檀家三十軒)とは比べ物にならない筈なのだが、それでもお坊さん以外の職に就かなければならない現実がある。少なくともそのお寺にはあるのだろう。私などはお坊さんをするしか芸がないので、お坊さん専業でやっているだけの話で、それをどうのこうのと自慢するつもりもないが、檀家のすくない中でお坊さん専業をしている私などは、霞でも食べて生きているのか、よほど精進しているのか、おバカさんなのか、欲がないのか、みたいな眼で見られているのだろう。お坊さんも様々である。人間一般がそうであるように。それが現実ではないか。

「片手間にお坊さんをしている」などと批判めいた言葉を耳にすることもあるが、一方には、二足の草鞋を履いてもお寺、ご本尊を護っていこうとされていると尊敬とまでは言わずとも、感心される人がいることも事実である。或いは、二足の草鞋を履いて忙しいことで、などと蓄財に勤しんでいるかの如きもの云いをされることもあるようだ。実に人の世とは面倒なものではある。隣の芝生は青く見え、隣の竈は賑わしく匂うのが常である。

そのような要求はどの世界においてもあり得ることだ。それは理想と現実の狭間で前向きに生きて行こうとする牽引力ともなるだろう。しかし、何事もバランスや節度がある。理想だけが先走りするのも、現実を口実に胡坐をかくのも、共に人生を過つことになりはしないか。というより、生きるとは「今よりほかになかりけり」ということであれば、先走ることも、停滞することも、ともに「今」の真相とは言い難いものとなってしまうだろう。又、本物でも偽モノでも生きていけるのがこの世の実際のところではある。偽モノ、本物、共にいのちの実物である。そして、どちらが人さんのお役に立つか立たないかは一概にいえないものがあるのも現実だ。まことに計り難い人の世と云わねばなるまい。

そんな人の世で、お前はどっちを向いて生きているのか?欲の世界か?欲を超えた世界か?というような自問がある訳だ。

「欲を越えた世界に、ありのままに、縁を生きる」
それだけが仏弟子の本領ではないのかなと私なんかは思っている。確かに、一芸に秀でる者は一芸を専らにするという真実はある。道は極まりのないものだ。一つに専心し深め極めることすらできないのに、二兎を追っている危惧がぬぐえないのも正直なところ。しかし、二足の草鞋が「悪」なのでも「善」なのでもなかろう。「二足の草鞋」を履かざるを得ない「縁」をまっすぐに生きること。「生きること」はいつも「只管」であり、「精進」でなければならない。専業坊さんをしているからと云って「二心」に生きていないとは言えず、二足の草鞋を履いているから「道に通じていない」とは一概に言えない。人の機根、能力、可能性は様々である。お坊さんもまた然り。人のこころは傍からは計り知れないものがある。

お坊さんとは一つの生き方だと言ってみても、それはどの社会でも言い得る事で説得力に欠ける。その道のプロとは余念なく只管に道を生きてきたもののことだろう。ある意味、二兎を追えない不器用さがあるのかもしれんね。何かを得たいなら何かを捨てなければならんというのも道の真相であろう。何れにしても、他の塵郷に関わっている場合ではないし、義理もない。私がお坊さんとして今をどう生き、深め、極め、豊かにしているか。常に脚下照顧の今があるばかりとしなければなるまい。




画像


「大樹」

短日や裏が表であるやうな

賀状書く窓の向かうに大樹あり

帆をたゝみ風に斃れし冬の蝶

つむじ風銀杏落葉に来て消ゆる

朴落葉大枚捨つる如くなり

柿落葉踏むやがさつな音立てゝ

来た道を帰れとばかり枯茨

枯れ尽くしこゝに定まる旅心

囚はれの身となおもひそ蔦枯るゝ

冬の暮れ懲りずに生きてみたけれど

落葉掃く音の聞こゆる不貞寝かな

桑枯れて秩父遍路の見え隠れ

夜祭りに寝られやはする秩父宿


画像


「たまゆらの」

坊守りの傍らに置く炭火かな

蓮枯れて鋼の水面あらはなる

落葉掃き寄すわが屍を埋むほど

龍の玉覗くや一人遺されて

さざんかの花のかんばせたまゆらの

侘助やなかば消え入るやうにして

さ迷へる風の音にも十二月

めぐり来る風の月日や冬木の芽

淋し世に零るゝばかり実南天

能登沖の空のくらさや波の花

冬苺風は地を這ひ空を駆け

炬燵出てそのまゝ甘いもの買ひに


画像


「能登荒磯」

花となり冬の浜辺に辿りつき

波の花能登の荒磯にへばりつき

沖をゆく風は寒かろさびしかろ

木枯しに耳を濯ぐや籠堂

神渡る風とし思へば我慢もし

成道の粥炊きにゆく星の下

炭火して旅のさびしさ味はへる

土塊のごとき手をもて注連を綯ひ

泣きじゃくる子の手に渡す蜜柑かな

冬鳥の飛礫や風に負けぬやう

流れゆく雲の速さや冬木立









・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

市堀玉宗第三句集『安居抄六千句』

画像



出版元である邑書林へ申込の方はこちらから↓お求めください。 

邑書林http://youshorinshop.com/?pid=91226737










テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
今日の羊頭狗肉・二足の草鞋を履くお坊さん 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる