再生への旅

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zoom RSS ただの禅・ひたすらなるもの

<<   作成日時 : 2016/03/27 16:21   >>

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かうしてはをれぬな薔薇も芽を吹きぬ 玉宗


今日などは春たけなわといった日差し。
門前町総持寺通り商店街では「雪割草まつり・そば市」が昨日から開催されている。町内外から結構な人出があるようで、昨年までは興禅寺前の広場がメイン会場だったが、今年からは市役所門前支所前に移ったようである。それでも催しの賑わいが春の晴れ渡った空に響いてお寺まで聞こえてくる。春本番といったところで、家にじっとしていることが憚れる思いすら起こるのだが、今日は一日境内の草むしりと納屋の整理などをして過ごした。

世に無くて七癖と云われる。癖にも様々ある。迷いという癖、悟りという癖もある。私という訳の分かったような解らない世界に拘る癖、自分持ちにしたがる抜き難い癖。今という、生きているここの事実、命している事実に様々な思いを持ち込む癖がある。色のついていない今の事実に色を着け、或いは色眼鏡で見る癖。そして本質的に浮かんでは消えるだけの思いに引きずられ、引きずって、思いだけは済まない業を重ねるのである。それを輪廻と言う。仏道はそれを止めんかと言う話である。断ち切る、又は振り回されるのを回避しないかという話であろう。宗教・仏法と言えば尻ごみをするかもしれないが、要するに命ぶれないで生きる根幹のところ。逆に言えば、それこそが宗教であろう。

そのような仏道を「只管・ただの禅」といい、その「ただ」の妙味は自己が自己に参じ、会得するしかない道でもある。それは「あたま」の理解で済むようものではない。それは「仏法」という「在り難そうなもの」があるという話なのではなく、独善とは程遠い、無我にして拘りのない次元の様子。そのような象徴を内外に育むことで具体的に生きているいのち。そのような極めてあたりまえの命に徹する。それ以外のものを宗教に求めようとする癖も人間にはある。ご利益だなんだと、縁起が悪いだなんだと、罰があたるだなんだと、主義主張、上下左右、どこまでも欲望の地平線上からの展望である。癖のない、いのちありのままの禅。好き嫌いの話ではない。自己の、ただ、ひたすらなるいのちの様子を人生の一大事として生きていこうということである。

ただ、ひたすらなるものの尊厳がある。徒や疎かに時を過ごしていても、いのちは今もひたすらなる尽力を施してくれている。妄想している場合ではないのだが、やみくもに動き回るというのもまた妄想と大差のない所業ではある。追わず、逃げず、求めず、選ばず、偏らず、ありのままに身と心を任せる。内外放寛という中道の実践、却下照顧、ひたすらなる生き方が試されているんだね。


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「平凡」

かうしてはをられぬ蛇も穴を出て

鶯やさながら床の十牛図

春雲のしろきことさへ愁ひなる

目借どき誰も相手にしてくれず

囀りに開けゆく空のありにけり

腸の一句もならずうらゝけし

べた凪の磯にひねもす若布刈舟

菊分つ背中が父に似て来たと

平凡に生きながらへてあたゝかし

紅梅に負けじと空の晴れ渡る

峠より港を望む土筆かな

落人の裔と伝へし雛流し



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「高さ」

鳥の巣のこれ見よがしの高さなる

また同じ夢みて春を愁ひたる

かたかごの花にかがよふ日照雨かな

目瞑れば奈落のごとし囀りぬ

仏壇の奥まで春の日差しかな

昼過ぎの日なた匂へり蜷の道

さ迷へる路地の椿も都ぶり

西京の日差しゆたかに雪柳

白雲の行方もしれずあたゝかし

亀鳴くと信じて任を解かれたる

たらの芽の癪に障れる高さにて


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「暇さうな」

蒲公英にあかるき風の吹く日かな

囀りを聞きとどめたる油断あり

石叩き行ったり来たりしてゆきぬ

いぬふぐり額に汗し働けと

君子なほ亀鳴く方へ行きたがり

眼帯の片目にお玉杓子かな

お隣りの杏の花を愛でゐたる

暇さうな男立ち寄る菊根分

朝寝して厭になるほど満足す

薺吹くさざ波ほどの光りあり

初蝶来シーツ叩いてゐたるとき


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