再生への旅

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zoom RSS 俳句の可能性「目は厳しく、心柔らかく」 

<<   作成日時 : 2016/04/02 16:26   >>

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てのひらに享けたる花のぬくみとも 玉宗



天ずたずたに一群の寒鴉 西川文子

「ずたずた」という措辞が衝撃的ですらある。「天ずたずたに」で少し切れる。冬空をずたずたにしたのは鴉か、寒風か。寒い風景ではある。容赦しない眼前への観察。柔軟な「寒さ」への感性の切込みがあろう。
「少年の踏む陽炎の甘からむ」視覚から味覚への展開。「踏む」という動作に着目する作者の感性の秘密があるのかもしれない。

水仙や石のくぼみに水残り 鹿野佳子


既視感に思わず納得した。類想というのではなく、イメージ喚起力に成功したということ。取り合せの妙は即かず離れずということだが、核となる季語が生きるも死ぬも潤いのある作者の感性の浸透具合ではなかろうかと思っている。

縁側に日差したつぷり七日爪 本杉純生

「寒鮒釣穴のあくほど水を見て」「日差したつぷり」も「穴のあくほど」も流通言語といってよい月並みな措辞ではあるが、「七日爪」「寒鮒釣」というその場限りの季語が、臨場感ある一幅を醸し出している。鑑賞という作業は誰のためでもない。鑑賞者自身の新鮮な息継ぎでもあろう。文台下ろせば反古にすればいいだけの話である。私には面白かった。

初日の出渚の人といつかなり 大木康志

「渚の人と」「なりにけり」ではなく「いつかなり」といったところが初日の出に執心している作者の亡念自失感が漂っていて捨てがたい。

この町に馴染みてふくら雀かな 鈴木あや

ふくら雀を愛おしむまでに町に馴染んでいる眼差し。或いは、町に馴染んでいるふくら雀を羨んでいる眼差しか。いずれにしても、日々の暮らしに足をつけて詩を見出すのも俳句の醍醐味ではなかろうかと。

骨となるまで鮟鱇の安らげず 竹内 章

思えば、鮟鱇の吊るし切りとは残忍極まりないものではある。動物保護団体が抗議しないのが不思議なほど。小動物への愛は一茶以来の俳諧精神。事大主義な世間を笑っているのである。

鳰の沈みし跡も流れけり 遠藤正保

俳句の面白さといったものがこのような句にもあることを再認識する。誰もが目にして、そして目にも留めないような一瞬を切り取る、よく見ることの秘訣は余念を持たないこと。ただ、まっすぐ見ることの柔軟さ、大事さが俳句表現には欠かせない。

どこまでも晴れて下野麦芽ぐむ 秋葉治江

「どこまでも晴れて」が関東平野のだだっ広さを言わずして語っていよう。「麦芽ぐむ」が無理なく視点を広げてくれる。渡りゆく風の音さえ聞こえてくるようだ。「寒晴や筑波山の七味唐辛子」「明るさの軒や凍み餅凍み大根」「寒晴」という季語の斡旋や、「明るさの軒や」という発見に、風土をわがものと生きる人間のおおらかな感性があるのではなかろうか。季語の現場に立ち会う作者の写実にリアリテイがある。

おもちや屋の夜の時計の寒さかな 宗像アヤ子

無機質と寒さは如何にも即いている感があるが、「おもちや屋」の「夜」であることが冬の寒さに叶っていないだろうか。「おはやうの山彦の来る凍豆腐」凛とした寒さに明ける山の暮らし。俳句的切り取りの詩世界がある。

ふくら雀双眼鏡をはみ出せり 関田和子

双眼鏡の向こうにクローズアップされた雀。折からの寒雀。ふくら雀ともいわれるほどの図体にいきなりピントが合ったのだろうか。「はみ出せり」が如何にも遠くて近い雀の存在感を漂わせている。「大きめの長靴ナース雪を掻く」そういえば大き目の長靴を履いていると目を見開かされる。俳諧的発見、美、感動といったものを逃さない俳人としての感性があろうと思う。

見る度に人を呼びたし返り花 木野文子

そういえばそんな思いをしていたことに気づいた。屈託のない、嘘偽りのない正直さ、欲深くないのが俳諧的でよい。内に光るものを捉えたということである。それもこれも、ものをみて素直に感じたからのこと。

寒鯉の群れ動かずに群れにけり 鍛代佳志

「裾野まで富士の山なり大旦」共に、とくに目新しい視点でもないのだが、こせこせしない、おおどかな、そしてある意味厚かましい表現が好ましい。類相というには捨てがたい勿体なさがある。

袖口を濡らしてよりの寒さかな 北村和子

省略の妙味があるだろう。袖口にも様々あることはいうまでもない。濡らした場面も様々にイメージできる。「寒さ」ひとつにも詩的世界が広がる。それは次の二句にも言えるだろう。「何処へでも行ける波止場の冬鷗」「裏白のちりちり乾く金物屋」俳句は言い切ってしまわないことによって世界が広がる。しっかりものを見る厳しさがあってこその省略。言葉は正確に、言葉への信頼があるからこその自在な表現。

親指の先の切傷去年今年 太田喜代


去年今年という大仰な、大雑把な季語に「親指の先の切傷」という些細さが見事に一矢報いているといったところか。親指であるところがいわく言い難い必然性がある。年始年末、水に仕え、火に仕える女性ならではの視点なのだろうか。

初風の人無き町へ出でにけり 笠井智郁

人影もまばらな正月の町並みの味気なさ、風のよそよそしさ。それでも出て歩く暇人の無頼さ加減が出ていて哀れですらある。

初鴉一声鳴いて飛びゆけり 黒木翔佯


「一声」が如何にも手持無沙汰の初鴉ではある。それに耳を澄ませた作者の感性。孤独感、寂寥感。未知にして更なる世界への不安と期待。絶望感と達成感。「初鴉」が切ない。

根菜をたつぷり刻み寒に入る 寺田民子

「根菜」がいい味を出している。寒へ向かう生活者の逞しさが窺えて好ましい。ここはどうしても「たっぷり」でなければならない。家族の団欒、こころの豊かさへ見えてくる。

兄母似弟父似屠蘇を酌む 平野典代

家族揃う新年の一場面。今更のように親子の表情を見つめなおす作者。多くを言わない、言えない俳句がいい味を醸し出している。「大海へ出て行く白帆初景色」新年の思いとは陸に留まる旅人の如き眼差しがあろうか。海へ転じた何気なさがいい。

まなかひに不二を据ゑたる大旦 三浦明彦

古俳句の面影漂う一句ではあるが、言ってのけたる作者の大人ぶりに感服する。「据ゑたる」のはだれか。ほとんど神がかっている情景ではあることが窺える。羨ましい限り。「郷は雪しづかに時のふりつもる」ふりつもるのが「時」という感覚が如何にも風土に寄り添う人間の気息である。これもまた羨ましい詩魂。

味噌仕込む板戸を開けて日を呼んで 山口昭利


「仕込む」「開けて」「呼んで」と畳みかけることで味噌仕込みの臨場感、つまり古きよき暮らしぶりの躍動感
が伝わる。「三寒の四温の乾布摩擦かな」乾布摩擦といったものは意外と古来からあるのではなかろうか。三寒四温という朝鮮伝来ともいわれる季語に無理なくマッチしているのもその故であろうかと思ったりする。面白い。




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「あふれる」

山越ゑの霞の中へ消えゆきぬ

立山の峰に雪あるさくらかな

はくれんの光り溢れてゐたりけり

こゝに来て坐れと土手のたんぽぽが

肩の荷を下ろせと蝶の来たりけり

窓開けて花のそよ風溢れしむ

花見より戻れば家の仄暗き

喇叭水仙日を飲み込んで吐き出して

ぶらんこを悔いの如きが漕ぎ出しぬ

能登富士へ尻を掲げて芋植うる



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「弔句」

順番に生まれ死にゆく万愚節

ただならぬ風とし思へば花の舞ひ

先駆けて風に翔ちゆく花のあり

てのひらに享けたる花のぬくみとも

ひとひらの花のゆくへも知らざりき

初花や生きながらへて見ゆるもの

遺されしものみな仰ぐさくらかな

奈落より風吹き渡る夜の桜

花はみな光りのいろを尽くしけり

今生の花の句集や龍天に



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「遠くなる」

震災を共に生きたる桜かな

生き死にの声ある花に疲れけり

鈴の音のごとき風あり光りあり

雪柳見てゐて臍に汗を掻き

杏咲くたびに母じやが遠くなる

蛇穴を出でてほどなく轢かれけり

さぶらへる風のかたちや糸柳

山茱萸の光りぶちまけゐたりけり

鳴きもせず通り過ぎたる初蛙

藤の実は弾け蛙の目借りどき

言ひ出せぬまゝに蓬を摘みゐたる

菜の花へ降り立つ越の薬売り

龍天に越中富山反魂丹



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