再生への旅

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<<   作成日時 : 2016/04/26 07:19   >>

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鳥雲に五七五と指折れば 玉宗



仏道とは、畢竟、生きている今の実物でなんぼのものだろうという思いでやってきた。苦悩や行き詰まりの人生を送りたくなかった果ての選択であったということである。よそ身をせずに仏道を歩んできたかと問われれば否、と言うしかない御粗末な仏弟子ではあるが、なんだか知らないが、経験則も加味されて実物で生きることに意義があるだろうと疑いもせずに今日まで生きてきたようなところがある。実物とは何か?実物で生きるとはどういうことか?どうして実物で生きることが魂の救済なのか?
 
例えば「経典は月を指差す方便」に過ぎないということが云われる。「経典」は「月」という「実物そのもの」ではない。言葉の世界の話、つまり「説明」である。「月」に譬えられる「真実・悟り・本物・実物」の世界の説明、又は行くべき方向性、又は歩き方の指南書みたいなものであろう。たとえ言い尽しているとも、どこまでも「そのもの」ではない事は明白である。言葉の世界は「観念・思い・想念」の世界と言い換えてもいいだろう。「月」でもなんでも、眼前にあるものを見たり、聞いたり、味わったり、触れたり、嗅いだり、感じていたりしている「今」という命まっさらな事実がある。

「眼横鼻直」という一つの生き方の典型がある。実物がある。「眼横鼻直」とは道元禅師が自ら仰られた自己の証契即通の端的、身心脱落の道得の一つである。仏法の様子を言うのに、目は横に鼻は直なることを以って足りているという。あたり前であることを受け入れることは迷っている者が迂闊に言うほどあたり前なことではないという現実がある。人間社会には迷っていることすら覚醒できないということがよくあるもののようだ。仏法という何かしら有難いものが自己の外に塊のようにあるのではない。

まさに自灯明として自己の分際に明らかなものであるということ。そこを理屈ではなく、分別以前のいのちまるごとが肯ったということでもある。そのものをそのものとして目の当たりにする。一つになる。迷悟以前。凡聖以前。自他以前。比較以前。善悪以前。分別以前。説明以前。言葉以前。その様にしか言挙げ出来ないいのちの全き実物の様子がある。

仏道はいのちの話のことである。誰のいのちか?それはだれでもない。私のいのちであり、仏道は自己の開明、決着であり、自問自答であり、よそ見をせずに真っ直ぐ自己を生き抜く、それだけの意義を人生の一大事とし、そのような生き方、実物を引っ提げて社会へ還ってゆく。自己に決着できないものがどうして他者と折り合いをつけることが出来るだろうか。



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「頑固」

これみよがしにひらき初めたる牡丹とも

白藤の雲よりしろき花垂れて

中空に八重の花房泡立ちて

歯が抜けてしまへり春を惜しむなり

草を引くうちにばかばかしくなりぬ

さびしさはだれにも負けぬ風車

人を待つ肉の昂ぶり風青く

恋人をはためかせ風光るなり

掃き寄せて肉の重さや落椿

日曜はどこかうつろでうらゝけし

鶯の如何にも手練れ老いにけり

蒲公英の臍のあたりが頑固なる

囀りや空に溺れてゐるらしく


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「恋」

恋人を待たせて風の光るな

蒲公英のやうな男に恋をして

逢ひたくて若葉に濡れて来たりしと

亀の鳴くあたりうろつくほかはなし

時間まで猿の交るを見て過ごし

恋人はいつもわがまゝ花ミモザ

失恋はこの世の涯鳥雲に

君がゐたいつもの場所のいぬふぐり

たんぽぽの絮は旅立つやうに吹く

風船の失せたる空のあるばかり

疑へば恋はおしまひ紫木蓮




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「をとゝひ」

雉鳴いてふるさと老いてゆくばかり

能登富士へ吹き寄せらるゝ代田波

代田吹く風に向かへば寒かりき

をとゝひの方より来る田螺かな

父は今蜷の道より戻りけり

塗り終へし畦の中より蝦蟇の声

水口に沸き立つお玉杓子かな

土出でてもんどりをうつ蚯蚓かな

水音のゆたかに春も曙の

蔓引いてほろほろ落つる花あけび

寄居虫に後れを取りし馬糞雲丹

ばば栄螺拳骨ほどの大きさの

踊子草束にかかって咲いてける

梢吹く風ひるがえる光りつゝ

















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