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zoom RSS 今日の因果歴然・謂れなき人生!?

<<   作成日時 : 2016/05/28 18:15   >>

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愛よりも少し大事な薔薇貰ふ 玉宗




人生には謂れのない災いや中傷や誹謗を受けて挫折の苦渋を呑まされることがある。心を開いていたと思っていた人たちから排斥されたとき、又、天災地変に遭遇し被災したときなど。「どうして自分が!」と天を怨み人を恨む。そんなとき、災いを被る「謂れ」を受け入れることは中々辛いものがある。天災ならまだ諦めることが出来る。それは天の采配という平等公平を渋々ながらも容認せざるを得ないから。人災の場合は一生恨み続けることになりかねない。

然し、「謂れのない」ということで言えば、天災人災の負の面ばかりではなく、私への評価、恩恵なども「謂れのない」ものとして私について回っているに違いない。そのような「謂れのない幸福」に対しては、それが謂われのないことだと云うことに気づこうともしない。恰も自分でなければならなかったかのように感じ、自分の力で引き寄せたかのようにふるまっている。

「謂れ」のないものは一つもないとわが人生を受け入れること。これは信仰の領域であると言っていいが、想像力や感性という人間性の問題なのかもしれない。そのような自己であってこそ、謂れのない幸福は人と分かち合い、謂れのない災いは支え合うことが出来るのではなかろうか。

すべて「謂れがある」という誤魔化しのきかない世界、それは余剰や不足のない命の自在な姿、本来の様子であり、偏りのない自己の世界を知る機会でもあるのかもしれない。そしてそれは私に生きることの慎み、尊厳性というものを教えてくれているように思う。そうであってこそ「挫折」は「飛躍」への展望台となるのではなかろうか。

良くも悪しくも、人が知ろうが知るまいが、誤魔化しのきかない世界であってこその人生の醍醐味、自由自在。不条理、矛盾そのものが実相を知る手がかり、窓辺であったのだということ。謂れなくも容赦ない、あるがままの世界を人はときに従容と、ときに痛みを感じながら受け入れているのだろうね。

足りている命であることを知ること。欲望の彼岸。人間にとってそのような眼差し、地平とはやはり想像を超えたものなのだね。謂われなく授かった命とは、私という閉じられた世界の認識に過ぎない。もの足りても、もの足りなくてもなんともない、いのちの充足がある。実相がある。信仰とは従容と生き、従容と死ぬための学びなのであるが、それはどこか存在の核心へ身を投げるような最初の一歩なのではないだろうか。



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「沖」

みちのくをおもへと寄する若布かな

さびしらの浜昼顔に来て坐る

更衣われに流浪のこゝろあり

生き死にの別れも近き茅花かな

幸薄き大山蓮華色褪せて

朴咲くや鳥も通はぬ上の空

垂れ込めし峰の雨雲橡の花

同胞はみな遠くして蛇苺

をのこみな沖に恋して黄菅ゆれ

ひとり来て一人し帰る浜豌豆

砂浜に憂ひ引き摺る薄暑かな



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「鬼」

たたなはる山色たがへ鬼薊

靄なせる雨や青羊歯暗くして

旅の途のふと立ち止まる花いばら

鬼灯の花とも見えず散りにけり

ふるさとに老いぬ空木の咲くころを

七堂の鬼門を守る花槐

新馬鈴薯を里の馳走とふるまへる

鼓なして蕗の広葉に雨来る

恋をする蝶の高さや花樗

鬼の子が虹を渡つてゆくところ

蓮池を巡る目覚めの悪さあり


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「烙印」

烙印を捺されて生きる蛾なりけり

人とちがふときめき風の薫るなり

短夜の人を送りて余りあり

一湾を傾けゐたる若布刈舟

葉隠れの風に河骨光りけり

能登富士を下りて一気に植田風

またたびの花しらじらと翳るなり

親を捨て子を捨て茅花流しかな

晴れ渡る麦の秋風なりにけり

言ひ過ぎてしまひし薔薇の香なりけり

葬送は祭りのごとし雲の峰






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