再生への旅

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zoom RSS 施食会・貪りを離れる

<<   作成日時 : 2016/08/02 18:18   >>

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食ひ足りぬ鬼がゐるらし草いきれ 玉宗


3日は興禅寺山門施食会である。
一昔前までは「施餓鬼」と言い習わしていた。同じ禅宗でも臨済宗は今でもそれで通しているようだ。宗門はいつの頃からか、「餓鬼」が差別用語に抵触するという見解を受けて現行の「施食」に統一した経緯がある。

まあ、いずれにしても「貪りのこころ」を戒めての、生きている者たちの慎ましやかさがそこに横たわっているだろう。思えばこの一年、餓えることもなく生き延びて来たのではある。人の世に生きるとは施し、施され、支え、支えられつつの縁の然らしむるところ。

信仰に生きるとは今に生きる命に目覚めるということ、物足りないながらも足りている命を、まっすぐあるがままに頂くということ。それもこれも諸行無常の人生に行き詰まらない智慧の為せるところ。貪りや煩悩を超えたところに救われる身心の安寧がある。やるべきことをまっすぐ余念なくやり、してはならぬことをせぬ今を生きることの覚悟、潔さが試されていよう。

行き詰まるのは貪るからである。貪るから信用を失くすのである。からっぽでなければ施すこともできないというのが存在の条件であろう。天も地も人も誤魔化しが効かないことを知らなければならない。天地人、神仏の隠顕を超えた利益の中での我らである。世に四恩とも謂われる存在の危うさ、有り難さ、縁の真っただ中で生き活かされている我らである。

貪りを離れること、それはそのような大きな世界に抱かれるための公然の秘訣ではなかろうか。人は得てして自分の小さな、狭い世界に縋りつく。百尺竿頭にしがみつく人間の愚かさ。貪り、執着を離れるということは、竿頭から手を放し、なんともないひろやかな地平、世界への初心ではあったのである。


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「かぎり」

水無月のかぎりや空に翳もなし

葉隠れの紫深き葛の花

葵咲くけふをかぎりの明るさの

あかときの谷に谺す威銃

待宵草灯点しごろの仄暗さ

夏薊見渡すかぎり野の風の

翡翠や淵に映えたる緑濃く

腸の声をかぎりや蝉時雨

梅干して星の滴る夜なりけり

夜や秋の裏道をゆく人の声



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「空の記憶」

八月の空の記憶やはるけくも

病葉や卒塔婆の文字もいやうすく

家系みな馬の骨なり草いきれ

夏萩のしだれて風の滞る

夢うすきうつゝに虹を見たるのみ

アルバムが形見となりてゐる西日

残照の空に花燃ゆ百日紅

向日葵の見てゐし焦土かもしれぬ

父といふ不在恐ろし雲の峰

とんぼとんぼ明日の見えざる蜻蛉かな




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「夏花」

夏花摘む妻が甲斐甲斐しくてならぬ

盆用意あの世この世と振り分けて

塩舐めて炎天へまた消えてゆく

十二時を少し過ぎたる蝸牛

鶏頭のまだいとけなき憤怒かな

上の空知らぬがほとけ蟻地獄

知り過ぎてしまふもだうかとおもふ金魚

ひぐらしや褒められもせず日が暮れて

向日葵の向かうにけふも日が落ちて

すててことパンツ一緒に脱がないで

夜濯ぎの妻の沈黙雷の如し










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