再生への旅

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zoom RSS 臘八摂心・坐禅という空間

<<   作成日時 : 2016/12/03 19:30   >>

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星巡る山のしづけさ臘八会 玉宗


僧堂では今臘八摂心の真っ最中である。
釈尊成道の古跡に倣う坐禅の集中講座といったところかな。それもこれも、自己元道中にあるいのちへの目覚めを期してのことにほかならないだろう。曹洞、臨済と坐禅の用い方に差異があることはよく知られたところ。土俵が違うとおっしゃった老師もいた。どちらがいい悪いとか、上等とかという話ではない。

宗門の場合、謂わば坐禅が仏法そのものの象徴としてあるかの如きである。象徴が象徴としての面目ならしむるのは個々が具体的に象徴をわがものとして行じていくことが欠かせない。高祖様の指南を俟つまでもなく、坐禅を活かし、坐禅に活かされるかどうかが宗門人には試されていよう。

迷悟の問題も坐禅という象徴を掲げている者には些か世間や他宗とは趣が違ってくるのが当然である。象徴に生きるとは迷悟や欲望など諸々の二見を超えることに他ならないだろう。やりとりできる領域の話ではない。土俵が違うとはそういうことだ。宗門の坐禅は釈尊成道の因縁に倣う安楽法門、寂滅為楽、生死即涅槃、自灯明、法華転法華、少欲知足なるいのちに生きんがための威儀であり、空間であり、行持である。

ひらたく言えば、自己のいのちの実物を真っ直ぐ戴く作法に他ならない。坐禅はそのような姿勢をもって担保されている宗教そのものなのであり、我々にとって行持とは竟に何かを付け足すことではなく、無為に徹することにほかならないことを知るべきではなかろうかと思っている次第。

宗門が行持を離れて存在しえないとはつまり、そのような象徴を自らに育み生きる当然の帰納なのであり、無為に生きる宗教の本質、醍醐味もまたそこにあると言わざるを得まい。理想的には僧堂安居という異空間だけではなく、娑婆という泥沼、喧騒の空間にあっても坐禅の本質、宗教の実物を引っ提げて生きていきたいものではある。合掌


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「寒い日」

寒い日を待たされてゐる木瓜の花

冬籠昨日も今日も明後日も

綿虫やざはざはと雲引きつれて

きのふとは打って変わって冬めきぬ

明日知れぬ気楽さにありふぐと汁

白鳥来過ぎたる日々のあかるさの

歳月の記憶曖昧帰り花

あさつての約束にして柚子貰ふ

をととひの方より来り着ぶくれて

十日ほど前から鶴が来てゐると

けふもまた冬鳥一羽来るのみ

二三日後に歳暮が届きます

年賀状月を跨いで書き終る

宵越しの空の奥より鴨の声


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「風の行方」

がうがうと雲ゆく能登の冬岬

海見ゆる先祖の墓を囲ひけり

沖雲を裂いて冬日の降りそそぎ

冬百日能登の海鳴り夜もすがら

よく眠る能登山並みな低し

さ迷へる冬の夜風や戸を叩く

冬草の傾るゝ風の行方かな

村十戸軒寄せ合うてしぐれけり

めくるめく押し寄す冬の波がしら

神灯のゆらぎも能登の鰤起し

沖よりの風に生るゝ波の花

ねんねこや沖に弧をかく星の数

鱈鍋に夜更けて眠るばかりなり



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「そのママ」

日に月に山河枯れゆくばかりなり

遅刻しても叱らぬ三色すみれかな

夢みるにほどよき草の枯れ具合

冬に旅する風の子吾に痣一つ

夜に生れし雪の子汝の肌かな

皸の疼く刃の夜なりけり

炬燵出てそのまゝ鐘を撞きにゆく

焚火してそのまゝ消えてなくなりぬ

癪に障り蜜柑を五つほど喰ひぬ

泣き寝入りしたりし星の冴えかとも

神体と伝へ入らずの山眠る

涸るゝとも不動の滝として崇め

道のべの祠や蔦も枯れ尽くし

涸れつゝも流れを急ぐ水の音

熊も眠ると番屋に網を繕へり












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