再生への旅

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<<   作成日時 : 2016/12/06 16:51   >>

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成道の粥炊きにゆく星の下 玉宗


今年も師走となり、光陰矢のごとしと実感させられる日々です。今年一年、檀信徒の皆様にはどのような一年であったでしょうか。仏道もまた生きることに謙虚であり、真心を尽くし、学ぶ姿勢を失くさないことが求められています。私なく「今」をまっすぐ生きているのかどうか。先を当てにし、あなどり、恐れ、過ぎたことを引きずり、悔やみ、おごり、妄想の限りを尽くしているのではないのかどうか

諸行無常の人生に対処するにはそれなりの心構え、姿勢といったものが欠かせません。ありのままの世界に生きるとは真摯なるものであり勝手気ままなものではありません。あきらめることもいらず、むさぼることもいらない安心の世界。限りある命、一期一会の命なればこその救いがあります。道があります。生き方があります。死に方があります。

さて、十二月八日はお釈迦さまがお悟りを開いた日として伝えられています。難行苦行の末に、菩提樹の下に坐して、明けの明星を仰がれ悟られました。

「吾と大地有情と同時成道す」

本当の悟りとは跡形もなくそれそのものに成りきることです。道に成りきる、それを成道とはいうのです。言葉を換えて言えば、ありのままという実物がものをいう世界のこと。道と常に一体、ひとつのもの、時間的にはまさに同時というべきもの。我他彼此いうようなものでもなく、なにがあってもなんともない一体、一枚の世界の様子。
ああでもないこうでもないというようなものでもなく、裏表なく、争うこともいらない、謂わば絶対的な世界の様子のことです。

「三界唯心」という言葉があります。
世界はただ「心」のみがあって、生老病死もすべて「心」の様子であるということ。そこに私とか我といった拘りは本来存在していません。仮に言っても、私という存在は、世界と共に生まれ、世界と共に生きて、世界と共に死んでゆくというのが実際のところではありませんか。敢えて「私」と意地を張る必要もないのです。己をむなしくして、よくよく現実というものを観察してみれば、そこには「三界唯心」つまり「心・無私なる縁起の理」があるのだということ。お釈迦様のお悟り、目覚められ、一体となられた「道」とはそのような次第のものであったのです。

さて、我々の信仰、仏の道とは諸行無常を宗旨として生きていくことです。それはつまり、無常なる人生の山河を渡るのに「仏法」というよりどころ、支えを以って歩むことを志していることにほかなりません。本来、ありもしないご利益や無理難題を期待するような筋合いのものではありません。

眼前にあきらかなる生死、いのちの本質から目を背けない。そこにこそ学びがあり、救いの入口があり、出口があります。地に足を降ろし踏ん張って、空を望む。今をまっすぐ生き切る潔さだけが永遠のやすらかさを手に入れることができるのではないでしょうか。思い通りにならない現実にともすれば愚痴をこぼすのではありますが、思い通りにならないということは言葉を換え、見方を変えるならば、それほど「今、ここの、命している事実」とは、深く、豊かで、言葉では言い尽くせず、浅知恵では辿りきれないものだということです。

いつも、どこでも、今というかけがえのない命を生きている。そのような「全き、余ることなく欠くることなき今のいのち」の様子があります。それを仮に「私」とかなんだかんだと言っているにすぎません。仏弟子とは、欲望に振り回されず、ぶれないで、よそ見をせず、自分の物足りなさを超えて、いのち足りている「今」をまっすぐ頂く姿勢が試されていると知らねばなりません。

まっさらな汚れのない、清浄なる「今、ここ」の事実をまっすぐに受け入れているのかどうか。
拘りなく「今」を生きているのかどうか。先を当てにし、侮り、恐れ、過ぎたことを引き摺り、悔やみ、驕り、愚痴を繰り返し、仏と寸分たがわぬいのちを生きている本当の自分を欺くことに終始しているのではないのかどうか。
よくよく点検してみるに越したことはありません。

人生はあっという間です。あってなきが如くです。光陰矢の如しと申しますが、正確には光陰が虚しく過ぎるのではなく、私が今を虚しく生きているのではないのでしょうか。世界は私を中心に回ってはいません。私と共に回っているのです。なんともない仏の世界、無私なる世界とはそういうものです。だからこそ救いです。あきらめることもいらず、侮ることもいらず、貪ることもいらない。私といったものを先立てない、或いは後追いしないところにありのままに生きる安寧・安心があります。

そのような仏と寸分たがわない「道」に生かされている様子が「今」として現成しているのだということに目覚めなければなりません。よそ見をせず、私の物足りなさを超えて、いのち足りている「今」を頂く姿勢が求め、試されていると知らねばならなりません。

行き詰まりのない生き方を仏道は指し示しています。
ひろやかにして、偏らない「今」という事実の様子、なんともない「実物」が如実に差し出されています。仏道とはそれをまっすぐ戴くことに尽きるのです。そもそもが命は生死という解放を前提としています。当初から行き詰まりといったものが予定されていません。生まれて、生きて、死ぬだけの事。絶望とか行き詰まりといったものは畢竟、人間の観念の所産、妄想であったのです。

祖師の言われている
「無常、是れ仏性」
自己の内外に常なるものがあるから間違い、行き詰まるのではないでしょうか。本来、無一物にして生まれ、生き、死ぬ命の事実があるだけ、今もそのようにして生きているはずなのです。貪らず、今のいのちに足りている事実。いのち足りている今の様子があります。まさに法灯明は自己の脚下に明らかなのだということ。

仏道は本来の自己を徹底信じ切る道です。実物は決して行き詰まりません。自己に決着できない者がどうして他己を受け入れることができましょうか。仏道の和合とは狎れ合いではありませんん。競い合う理由がないのです。争う理由が本来的にないのです。仏が仏に落ち着くという話だけのこと。それはつまり、仏道という、行き詰まらない人生、自他一如という、限りあるいのち活かす最善の在り様を言っているのではないでしょうか。

生きながらえて見えるものがあります。また、見えなくなったものがあります。沖に進めば見えて来るものがります。見えなくなってしまった陸もあります。それもこれ、人生という旅の途中の話であり、一期一会の「今」の欠けることなく余ることなき様子ではあったのです。

引き返すことも、中断することも叶わない人生の歩み。大凡の見当はつくと雖も、いつ果てるとも知れない人生の歩み。然し、今、ここに展開している空があります。雲があります。風があり、息吹があるり、出会いがあり、。別れがあり、生老病死、四苦八苦があり、諸行無常の今があります。選ぶこともいらず、拒むこともいらないありのまま世界ですね。仏道とはそのような世界をよしとする話ではあったのです。
 
人生の山河とは本人が乗り越えられるものを神は与えたのだと云われます。
それはつまり人生とは私の世界の様子以外のなにものでもないという極めて当たり前の事実を言っているのではないでしょうか。そこは本来比べることのできない領域です。人の世は比べてなんぼのものだ、という現実も確かにあるでしょうが、それがいのちの価値の全てだと誰も言い張ることはできません。存在の条件はみな同じです。

人生の山河の途上で、ときに絶望し、再生し、希望に生きる人間。人は人として生まれて来たのではありません。人になるために生れ、人になるために生き、人になるために死ななければならんのです。生まれたときから「終活」は始まっているのです。

山あり谷あり、人生の山河の道程と風景は、まさに人それぞれの脚力と視力と想像力の賜であり、それぞれの生きる力が試されていたのでした。そのような存在者である自己が自己に落ち着くことの以外の、どこに限りあるいのちを生きる人間の安心立命があるのでしょうか。絶望や希望のはざ間で、揺れ動きながらも、今を精一杯いきる。諸行無常の現実に足を踏ん張りながらも、欲望の彼岸という人生の沖へ眼差しを向けて生きる。現実を尊重して生きるとは、そのような事実を受け入れて生きる柔軟さのことを言うのではありませんか。

柔軟でなければ生きて行けないのが生きるものの定めです。仏と寸分たがわぬ本来の自己を生きるとは実にそのような命の然らしむるところであったわけです。

己を知り、己を生きるとまでは誰もが口にしますが、己を忘れることこそが仏弟子の面目でもありましょう。それこそが人生を逞しく生き抜いてゆく公然の秘訣なのです。あきらめず、貪らず、おのれむなしく今を生きる.倦まず弛まずまっすぐ人生を生きる。沖に出て見えて来るものが確かにあります。

仏の方を向いて精一杯生きる。それを尊いとしなければなりませんね。いのち、大事に。合掌







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「こんな夜は」

実南天食み零したる五つ六つ

父の座に憚りながら着ぶくれて

ちゃんちゃんこそろそろ智恵のつく頃の

ねんねこや子を捨てかねて唄ふなり

透けてゆく妻のはだへや雪催ひ

消えやすきつはぶきなればこそ光り

焚火せしさ中の雪となりにけり

人を送りて外套重き夜なりけり

こんな夜は能登の地酒と海鼠腸と

炭火爆ぜひとり夜更けてゐたりけり

脛に傷ある夜風とおもふ炬燵かな

しんしんと夜の底ひに葛湯吹く

皸の赤き口開く月夜かな



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「小僧」

寒さうな小僧が通る烏かな

山茶花の散るにまかせて咲き継げり

息潜む山に抱かれて成道会

枕辺に蜜柑を置いて去りにけり

一人さびしも冬大空を高舞ひて

伏せ葱の首を擡ぐる臘八会

綿虫やはつきりしない空のいろ

隠したり締めたり冬に籠つたり

冬ざれし足手纏うてゐたりけり

雲中に日を孕みたる寒さかな


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「有無」

人の来る夜はよく爆ぜる炭火かな

成道会星の滴る夜なりけり

熱燗を好みて運に見放され

沢庵に有無を言はせぬ重石かな

素っ気なき景色大根太るにも

柚子実るこれみよがしの明るさの

山を越え海越え杜氏来たりけり

巌を噛む怒涛浜菊枯れにけり

へらへらと千枚漬をさし挟み

竹馬や同胞はみな遠く生き

夜廻りが夜の底ひを来たりけり

浅漬や他人行儀な京ことば



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