再生への旅

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<<   作成日時 : 2016/12/18 18:57   >>

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是よりのけもの道なり冬ざれて 玉宗


現代に於ける「既成宗教」の存在意義が問われて久しい。
もしかしたらそれは「宗教」発生以来の問題なのかもしれない。それは極論だとしても、大震災以来、あらためて「宗教」「教団」の意義が問われていることは間違いない。否、それ以前から社会は「宗教離れ」「教団離れ」の潮流にあり、今も尚それは留まる様子もないかの如くである。果たして「宗教」は今回の大災害を契機に再生する事が出来るだろうか。「教団」は自助することができるだろうか。「出家者」は目覚めることができるだろうか。「出家」もまた一つの「表現」である。その感性が試されている。その良心が試されている。その真価が試されている。存在意義が問われている。

誰も耳を傾けず、だれにも顧みられない表現・作品というようなものは存在しないに等しいか、或いは既に形骸化しているに等しい。「場」があってこその「表現」であり、「表現」されてこその「場」であり「自己」であり「他者」である。目覚めていなければならない、威儀、かたちが伴わなければならない所以だ。そういう意味でも「表現者」とは日々自己更新を続けるもののことであり、「出家者」もまた日々「欲望を超えた世界」へ自己を更新し続ける「覚者」「創造者」であることが望まれるのである。 

明治の廃仏毀釈、神仏分離令、「肉食妻帯勝手たるべし」という国の突き放し政策。宗門は現在「肉食妻帯」を禁じてはいない大乗仏教の路線にあるというのが建前である。ところで、宗教界にも在家社会にも「妻帯している僧侶は出家者ではない」といった指摘、批判がある。今の日本にあるのは「在家仏教」であり、「出家仏教」というのは有り得ないというもの。

お釈迦様は生まれたときから独身ではなかった。王子として生まれ、家族の中で育ち、学び、妻帯し、そして「王宮」を出られた。そして「サンガ」と呼ばれる「修行者の集団」へ入ったのである。そのような「一般社会とは違った領域の存在を受け入れる文化・精神的土壌」があったと言う事。出家者の存在を否定しない社会。

「出家、在家に拘るのはおかしい」

そうだろうか?

「自己を超える」という人間性、それは「在家仏教」でもまた避けて通れない人生の本質に関わる問題であるということだ。人間は環境の動物でもある。人間の自立とは本人が思い込んでいる以上に他律的である。言い換えるならば、煩悩や迷いから脱する手立て、方便、文化もまた、そのような「場」への検証があってしかるべきだと言う事。というより、そんな風に人間社会は現実の山河を歩んでいる。「出家社会」もまたそのような「一つの文化」なのではないか。

お釈迦さまは何故「家を出た」のか?
それは、欲望や苦悩や執着を越えようとしたということではなかったのか。「家」に止まるということは「煩悩に止まる」ということなのか?少なくともお釈迦様にとってはそうだったのだ。それでは、現代の肉食妻帯し「お寺」という「家」に止まっているお坊さんは煩悩に留まりながら「煩悩を越えようとしているのか、或いは煩悩がないのか、或いは煩悩を超えてしまったのか、一体何ものということになるのか?

「出家」とは何か?

自己の実体に帰ること、それをしも「出家」とは言いたい。「帰る」という「手間が掛かること自体」がまぎれもない「宗教」が「現実」に活きているということではないのか。自己の実物に目覚め、自己の実物を引っ提げて娑婆を往来するのである。日本には「出家」を受け入れる文化土壌がなくなったのか?「出家」は死語と化しているのか?「出家」というアイデンティティーを失くしたのは僧侶自身ではなかったのか?社会が「世俗化」してしまったのではないのか?

正直なところ、出家仏教、在家仏教、なんと言っても構わないが、自己を生きるのは自己には違いない。それにしても、われわれは自問自答すべき自己、超克すべき自己、再生すべき自己をどこかへ置き忘れて来てしまったらしい。自己を知らない愚かさ、危うさの真っただ中に現代社会は蠢いているような気がしてならない。


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「来る」

雪女郎去るが如くに来たりけり

侘助や言葉虚しく佇める

一枚の影に重なる鮃かな

海豚来て愛の如きを囁きぬ

五つほど蜜柑を食うてゐなくなり

光陰の果てなるこゝに琵琶の花

白鳥来る遺書の如きを携へて

枯野ゆく失意に似たる気楽さで

龍の玉空に傷つき癒されて

荒野来て生きた心地やなめこ汁

柚子風呂や心おきなく日の暮れて


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「用足二十句」

をのこ香し枯野に尿をするにさへ

用を足す男隙あり枯尾花

今日も来て己が尿嗅ぐ狸かな

着ぶくれて用を足すにも難儀せる

雪に尿してをの子は己が印とす

よく匂ふおねしよの蒲団干されあり

雪踏んで厠へ向かふ夜伽かな

北風にあらがひ用を足す飛沫

星冴えて尿意催すこと頻り

用足してそのまゝ焚火してをりぬ

込み合へる駅の便所や十二月

水涸れてしまへり前立腺肥大

頻尿に丑三つ時の寒さかな

湯気立てゝ立ち小便や冬野原

夢にまで沁み込むおねしょ霜の夜

熱燗や用を足すさへ憚れて

うすらひの下をちょろちょろ水流れ

荒野来てウオシュレットに忸怩たり

雑炊をたひらげ用を足すばかり

お仕舞ひの切れの悪さや雪もよひ


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「放浪記」

北陸のみぞれまじりや蕪鮨

凍星や五右衛門風呂に首浮かべ

むささびや夜の奈落をひとっ飛び

熊穴に村に一つの鄙酒場

インパネス夜の帳を翻し

夢に汚れし泥の眠りや狸来る

紙漉や白き山より水引いて

いつ見ても底の顔なる鮃かな

冬の暮踏んだり蹴ったりしてありぬ

縄跳や一つ二つと子を攫ひ

放浪記おしくらまんじゅう抜けしより






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