再生への旅

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zoom RSS 俳句の可能性・あたらしみ

<<   作成日時 : 2016/12/21 19:22   >>

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切り貼りし障子明りの月日あり 玉宗


俳句の醍醐味の一つに「即興の妙」、つまり「あたらしみ」がある。月並や類相の弊害に陥りやすいのは観念句、写生句のどちらにも当て嵌まるものではあるが、どちらかと云えば観念句の方がつまらない事の方がおおいのではなかろうか。自戒を込めて言うのであるが、自己満足、自惚れは文芸の塩ではあるが、何事も過ぎたるは及ばざるがごとしで、鼻もちならない狭い世界を提示して事足りているつまらなさがある。
 
俳句がつまらないのではない。つまらない俳句があるのだ。観念がつまらないのではない。つまらない観念があるのだ。写生がつまらないのではない。つまらない写生があるのだ。人間がつまらないのではない。つまらない人間があるのだろう。俳句の個性とは流行への臭覚と共に普遍性、客観性といったものへの遠慮が欠かせない要件である。言葉は生きものである。表現とは言葉という生きものを手なずける謂いであるのかもしれない。

そのような表現の一つである、たかが五七五の最短定型詩であるが、定型に翻弄されるのではなく、この定型を使いこなすには或る種のセンスがいるようだ。俳句的把握、俳句的美、といった世界の切り取り方、関わり方があるだろう。俳句という韻文に、新聞の社会面で扱うような事柄を詰め込むようなことをしても、それは散文の切れはし、新聞の見出しにも劣るというものだ。韻文と散文とでは言葉の色合い、深み、響きが違うのではないか。それはとりもなおさず、感応している領域が異なるからであろう。

韻文は事実の報告ではない、事柄の脚本ではない。理屈の陳述ではない。説明ではない。詩とは解ることではなかろう。感性による世界の認識。いのちという感性が、言葉という感性の所産を無心に使いこなすのである。無心であること、そこには当然、「無私なるもの」への憧憬、共鳴、共感が前提条件として働いていなければならないのではなかろうか。無私なるものこそが美しい、といった哲学があってもなんら恥じ入ることはなかろう。

つまり、私の生き方そのもののと切り離せない詩的真偽が、俳句の前提条件として要求されているということ。詩は無心の器に降り注ぐ。そうでなければ表現という言葉を越えた世界の一句を授かり一句に出会うこともなかろうし、一句も又、そのような私に出会うことを望んでいるに違いないのだから。文弱の徒ながら、たかが定型に命を削る所以も那辺に窺い知れようというものだ。

俳句教室では毎回十句前後の作品を鑑賞し、添削、推敲している。共に学んでいて気付くことがいくつかある。自戒を込めて言うのであるが、例えば、俳句も又文芸であるからには「言葉」との「格闘、選択、選別」といった表現の為の必要条件が欠かせないということ。当たり前なことではあるが、最短定型詩である俳句の実際では「言葉」への「拘り・精選」度といったものが結構緩いようなところがあるからである。韻文が感性の賜であることは、言葉の問題が二の次であるということではなかろう。「言葉」を引きよせ、或いは引き離すのも、作者の感性に委ねられた力技であろう。「言葉」は感性のかたちである。それを使いこなし、再生し、息を吹き返させなければならない。俳句の命は「新鮮さ・あたらしみ」である。それは「いのちの気息」に添った文芸形式であることを意味していよう。
 
五七五、短詩形故に似たり寄ったりの味わいではあるが、似て非なるものであることも確かである。「言葉ひとつ」「助詞ひとつ」も疎かにならない所以でもある。俳句に於ける「切れ」の問題も「間・余情・余白」といった「言葉の掛け橋」へのセンス・感性が試されている。月並とは常識に止まることなのだろうが、それは「感性を尽くす」ことを止めたということでもあろう。「意は似せ易く、姿は似せ難し」という教えがある。目に見えない「意・こころ・感性」というものは真似がしやすいものだというのは常識に反している。常識は目に見えないものをこそ真似する事が難しいものだと錯覚している。常識は「姿・かたち」ばかりを真似ていると非難するが、真似ごとと本物のの匂いをどこかで嗅ぎ分けているようなところもあるから曲者だ。目に見えるものをこそ真似が難しく、誤魔化しが利かない。

天才は予想外の「意」を持っているものであるが、凡才は「似たり寄ったりの意」で自己満足しているものである。善悪の問題ではなく、人並、常識でいることをこそ、その本領としているからである。そのようなスタンスで韻文に関わることもまた否定できない大衆文芸の現場である。そうではあるが、非常識な天才の出現を妨げるようなことがあってはつまらない。余談ではあるが、できることなら私もそうありたい、否、口外はしないが自分が天下一品であると自惚れている節がないこともない。そこに落とし穴があるのであろう。

文芸とは「自惚れ的」な領域もなくてはならない。そしてまた、「極めて客観的」な地平、眼差しもまた持ち合せていなくてはならない。俳句創作に於ける「言葉」も又、そのような端的な問題から逃れられないのではなかろうか。もしかしたら、それが全てなのかもしれない。韻文とは「言葉」という「姿」への作者という「意」の寄り添い方、着こなし方ということではないか。最短定型詩という「表現」の本質にそのような視点があってもいのではなかろうか。類句、類相といったことも「意・感性」と「姿・言葉」との地平から点検できそうな気もしないではない。



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「ふらり」

コーヒーに砂糖は要らぬ寒さかな

雪国のまなざし深き龍の玉

面影うすき父の遺品や冬帽子

着ぶくれて隅に置けざるやうにをり

会計に並び師走とおもひけり

辛酸を嘗めたる顔や飾売

仄くらきものに父の座火を埋む

年の瀬をふらりと鈴の鳴る方へ

鬼が棲む村とし伝へ根深汁

空耳を山鳩笑ひ山眠る

沖止めの舳先沖向く冬の虹

冬薔薇それどころではないときの

大根の媚びざる味を好みけり


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「沖」

家を出て沖見てゐたる師走かな

どうしろといふのか雪も頻りなる

会ひつどひ年を忘れてしまひたく

水洟を拭くべき袖もなかりけり

もう二度とその気にならぬ湯冷めかな

くしゃみさへ可愛気のなき女なる

深酒するな風邪を引くなと母喧しき

鼻息も白く憤慨してをりぬ

冬霧の前後不覚に入り込む

木の葉髪夜の向かうへ梳る

沖雲に雨脚見ゆる冬の暮

山暮れて空暮れ残る師走かな


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「暮れ」

力尽くしてものみな枯れてしまひけり

冬草は力を抜いて眠るなり

門松を作るに智慧を貸せといふ

海見ゆる峰に出でけり松迎

ツーアウト満塁日暮れ早きこと

グランドの空暮れ残る冬至かな

米櫃の暗がり覗く冬至かな

葱抜くや足もと覚束なき日暮れ

山の端に日の落ちかゝる焚火かな

かんばせは疾うに暮れたる焚火かな




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歌垣に その源を 辿るやらむ
いのちめでたし いのちめでとう
Jigme Yonten
2016/12/22 11:47

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