再生への旅

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zoom RSS 如来を生きる

<<   作成日時 : 2016/12/24 19:20   >>

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日の雫雨の雫や実南  玉宗  

「如来」といえば仏菩薩の尊称として受け取られているのが一般であろう。教義的にも多岐にわたるらしいその解釈や本義はしばらく置いておいて、顰蹙や批判を被るのを承知の上で「如来」の私的見解。

「如来」を如より来るという読み方もあるようだが、「来たるが如し」とも読めるのではないかな。「如去如来」「去るが如く、来るが如く」つまり何が言いたいのかといえば、諸行無常のあり様、「有時」「而今」なる今の様子、いのちの実際なるところを言い得ているのではないかと捉えている次第。

昨日の私も明日の私と同様のあってなきが如く、幻想のような代物である。そうではあるが、その時その時の「今」を頂いて来たのには違いなく、因果歴然たる無常の果てなる「今の事実」真如実際なる世界の様子がある。それを仮に「わたし」と言っている。言ったところで何が去ったようでもなく、何が来るようでもなく、只ひたすっらなる諸行無常の有時が展開している。

去るが如く、来るが如く、それは来るとか去るとか、塊のようなものが隠顕存没しているのではなく、まさに「如きもの」として「存在」し続けている。それもこれも「常なるものがない」からである。今をまっすぐ戴くことのほかに選択の余地はないことを「如来」は諭しているかのようである。

とういう訳で、生死は如来の全身である。私という閉ざされた狭い世界は予定されていない存在の条件。いつもいつも、どこでも私かぎりのいのちにして、今を限りのいのちにして、一期一会にして、とどまらず、偏らず、欠けることなく余ることなき、あるがままなる如来のいのちを生きる。如来のままに生きる。そこに仏道の本義があると言わざるを得ないのではないのかなと思っている次第。合掌。


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「筒抜け」

柚子風呂や青ざめゐたる夕暮れの

言はれたるまゝに南瓜を煮て食ひぬ

賞与なく褒められもせず僧たりし

賀状書く窓より沖の波がしら

水鳥のにぎはひも又淋しらの

筒抜けの空のしづけさ冬休み

着ぶくれて煮ても焼いても喰へぬなり

待たされてポインセチアを見てゐたる

償ひもならず海鼠となりにしか

数へ日や底の見えたるあかるさの

荷を下し腰を下して山河枯れ

夜回りや夜の向かうの闇路より



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「も」

莟なす椿も天皇誕生日

風もさ迷ふ能登も最果て冬菫

年の瀬も背負ふものなく淋しさよ

夢も叶はず冬至も過ぎてしまひけり

冬鳥来用あるときもなきときも

海鼠腸を好み今年も只のひと

寒くて寒くて夢もうつゝもあらぬなり

鴛鴦の夫身も世もあらぬ顔をして

クリスマス猫も杓子も山河大地も

死ぬことも上の空なる日向ぼこ

葉牡丹や昨日も今日も空を向き

托鉢の銭も手足も凍てにけり


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「一部始終」

日が少し伸びたやうだね冬障子

憚りつゝその日暮しの注連飾り

暇さうな父の手になる松迎

奥の手の妻が頼りぞ年用意

門松作る一部始終を見てゐたる

ちんぽこの面影もなき柚子湯かな

楪を分けて貰ひぬ実家にて

実南天日当たりながら雫せり

天上の泪や凝りて龍の玉

冬萌のことさら午後の雨上がり

捨てられしドール目を剥く枯野かな











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Gate Gate Paragate
Parasamgate Bodhi Svaha,
Gate Gate Paragate
Parasamgate...........,
Gate Gate Paragate
.......................
Jigme Yonten
2016/12/25 13:23

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