再生への旅

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zoom RSS 今日の少欲知足・貧しさを学ぶ

<<   作成日時 : 2017/02/07 10:41   >>

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田遊びになくてはならぬ男とか 玉宗

輪島市門前町鬼屋神明宮に伝わる田遊び神事・ぞんべら祭にお参りした。
20軒に満たない過疎の村の田遊び神事である。皆顔みしりの人たちばかりである。この地区には興禅寺の檀家さんが多い。半分は檀家である。本山の裏手に位置するこの地区は、その歴史も本山とは切っても切れない先祖からの因縁がある。

御多聞に洩れず、少子高齢化、過疎地として県内でも喧伝されているような所である。限界集落となではいかないが、私が住職になった平成3年以降、特に能登半島地震に被災して以降、人口減少、家系断絶が顕著になっている。それでも毎年立春に合わせて、この地区の人たちは産土神事を欠かすことなく伝えてきた。そこには伝えなければといった悲壮感よりも、自然と共に暮らす人たちの自ずからなる自然への畏敬からなる真心の発露といったものが感じられてならなかった。心根の優しい、信仰の篤い、純朴な人たちばかりなのである。

数年前から、マスコミや素人カメラマンが大挙するようになって、堂内は地元の方々が隅に追いやられるといった観が否めない。どうかと思うのだが、過疎地の貴重な神事を発信してやっているのだといったような驕りが私などには感じられてならない。

当日もマスコミが来て「伝統を後世に残したいとおもいませんか?」などと戯けたことを他人事のように言う。確かに神事も大事だが、それをいうなら本末転倒ではないか。地方創世、地方再生と為政者は言うのだが、このような土と一体化した慎ましい人間の心根を育てる自然や暮らしをこそ守ることに知恵を出し合うべきではと言いたい。情報に左右されない地道に切る人間の生活がそこにはある。
強がりに聞こえるかもしれないが、私などには過疎は大いに結構な環境である。豊かな自然とそれに育まれて生きる心の豊かさがそこにはある。

神仏という言葉を使うことに違和感があるなら、自然に対してもっと人間は「貧しく」あるべきではないのか。そんなことを強く思う昨今の世相。地方も中央もなく、貪ることに拍車がかかっているような現代社会。進歩観はすでに行き詰っているのではないのかな。

自然に対して謙虚に生きる「退歩」をこそ学べと声を大にして言いたい。

http://www.rnb.co.jp/nnn/news87115464.html
http://www.rnb.co.jp/nnn/movie/news87115464.html

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「学道の人は尤も貧なるべし」という道元禅師のお示しがある。

言うまでもなくここで言う「学道」は「学仏道」のことである。豊かであってはならない。「貧」であることこそそが「道」に親しむ要諦だというのである。貧しくてしかも道を思う者は、昔の賢人や後世の聖人が仰いでたっとぶところであり、仏祖や目に見えない世界の神たちのよろこばれるところであるという。

「貧」とは何か?
先ず、ここに足ることを知らない、むさぼりの心に焼かれる人間がいることが問題なのである。我欲・執着の世界から眺めたならば物の多少が人生の価値を左右するが如く見えていることだろう。物だけではない。名誉、地位、肩書き等を欲しがるのも人間の執着心の厄介なところである。裸で生まれてきた人間が、いつの間にやら、手に負えぬほどの物心両面に及ぶ荷物を背負い生きている。私自身も、能登半島地震に被災し、伽藍が全壊した折の落胆、失望ぶりは、物への執着がどんなに強いものであるかの裏返しであることを痛感したものだった。心の豊かさというものに思いが及ばないどころか、及ぼそうともしない日常ではなかったのかと反省させられた再生の日々でもあった。物の「豊かさ」一辺倒の人間には「道」に足を踏み入れる機会が失われる。

 「仏道」とはなんであるか?「仏道を学ぶ」とは自己の真の自立を習う生き方である。ものに引かれ、心に引かれ、生に引かれ、死に引かれ、様々な毀誉褒貶に迷う人間。そのような窮屈な人間らしさを棚上げして真に自在な、拘りのない世界に生きようとするものである。執着するものは何であるか?執着するべきものはあるのかないのか?私に足らないものは何なのか?私になくてはならないものは何なのか?

「そのもの」はそこにあるがままであり、貪ることも拘ることも僻むことも偉ぶることも必要としないほどの「貧」の極地である。あるがまま。眼横鼻直。真相は常に「貧」とか「豊」であるとかを超越して、只、かくのごとしである。私は私で天地いっぱい。あなたはあなたで天地いっぱい。お螻蛄はお螻蛄で天地いっぱい。ブタクサはブタクサで天地いっぱい。悪人は悪人で天地いっぱい。善人は善人で天地いっぱい。貧乏人は貧乏人で天地いっぱい。成り上がりは成り上がりで天地いっぱい。生は生で天地いっぱい。死は死で天地いっぱい。本来「天地いっぱい」のいのちを生かされている私。わが物というものはあり得ない。

私の都合で天地いっぱいの命をいきている訳ではない。私できるものはあり得ない、というのが存在の前提である。全て「公」にして「無心」なるものである。「私」がなければ全てが「自己」であるという道理がある。執着の仕様がない。「貧」が「道」に親しいのは、そのような存在そのものに真相に尤も近いからであろう。縄なくして自ら縛り上げるような愚さをしている私の日常。「仏道」はそれを已めないか、というのである。「足りている」ことを学ぶ覚悟がなければならない。


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「窓」

窓といふ遥けきものに春立ちて

波に寄せ波に浚はれ桜貝

立小便の上の空にて古巣見え

おしつこがうまくできない二月かな

表札に子の名増えたり春の星

沖開けて鳥籠吊るす春の窓

二月早や柱時計が狂ひたがる

捩子切れし妻が寝そべる春炬燵

魚は氷に洗ひ晒しの山河あり

床臥せの母には聞こゆ遠雪崩

覚め際の山裾烟る畦火かな

天道に手持無沙汰や東風烏


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「門前鬼屋神明宮田遊び神事・ぞんべら祭二十句」

山祇に抱かれとびきり春の闇

奥宮へ続く参道春の泥

あすなろの軋み鳴きをり雪斑山

春遅き杜に聳えし鳥居かな

寒明けの田遊び神事村上げて

灯も揺るゝ太鼓に春の立ちにけり

産土に膝寄せ合へる春炉かな

春祭り日は雲中にまどろみて

おうおうと禰宜が春呼ぶ囃すごと

鬼が棲む村にも春の遅々として

佐保姫を呼ぶ口上の懸想めき

畦塗ると餅の鍬もて均しける

田遊びの代掻牛は太鼓なる

襷して牛の鼻曳く年男

苗代に祝詞あげたる青松葉

山鳥の零して行きし梢の雪

早乙女といふには年を取り過ぎて

佐保姫の裾吹く風や雨ながら

立春大吉空の開けゆく気配あり

産土の杜に始まる雪解かな


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「とき」

海原のひろがりひろがり藪椿

猫柳ひかりに濡れて水流れ

惜別の空の明るさ梅の花

愛されずして白鳥帰る如くなり

雛飾る音も忍ばれ妻の夜

牡丹雪人と別れて帰るとき

古巣見ゆうち拉がれてゐたるとき

涅槃雪餡饅買ひに出たるとき

猫の恋ノートを買ひに出たるとき

冴え返るいつもの橋を渡るとき

鳥雲に故郷の荷を解くとき







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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
 色々な神事がつつましく行われているのですね。
其れを写真にしたり報道する方々に見えるあつかましさや傍若無人な姿、眼に見えるようです。まれにしか行かれない旅先でも見るのですが、景色の前に立ちはだかる脚立のカメラ陣、他人への優しさなど感じられません。ましてや地元の方々の大切な神事への、気遣いがないということへ、注意を促すことも出来ないとは、考えるだけでも嫌気がさします。神社の禰宜さまも我慢でしょうか。付近の神社では礼儀にうるさい禰宜さまがいらして、祈りの姿の間違いを糾して下さいました。ありがたいお言葉でした。
仏教も心境も門外漢ですが、最低限度の礼儀は弁えていたいと思います。
みどり
2017/02/08 11:24

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