再生への旅

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zoom RSS 禅的信の在り処・「到彼岸について」

<<   作成日時 : 2017/03/13 17:29   >>

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うなばらは淋しきところ彼岸西風 玉宗


彼岸も近くなり、日差しも柔らかくなってきた。
「今日彼岸菩提の種を蒔く日かな」
だれが作ったものか知らないが、彼岸中日を挟んで一週間、六波羅蜜の徳目を実践しようという民間信仰を照らしてのものではあろう。苦悩や迷いにうごめく此岸から、解脱や悟りの彼岸への歩み。彼岸へ渡る、彼岸へ到るといった物言いには西方極楽浄土の思想が底流にあるのだろうか。「渡る」「到る」には「自力」の響きがなくはない。一方で、阿弥陀仏に救われている身のわれらが「渡るべき」「到るべき浄土、彼岸」を予定しているようなところには「他力」の匂いがしなくもない。そもそもが「自力、他力」に括ろうとすること自体が「彼岸の理想」とかけ離れることになりはしないのかといった疑念が湧く。

坐禅や念仏が「菩提の種を蒔く」ことになるとはどういうことか。
結論を先に言えば、私は「彼岸」を今、ここに生きている。「此岸」とは覚醒以前の妄想であろう。「到彼岸」とは過程ではない。今の事実を指示している。宗門的には「到」とは「全到」「既到」と同義でなければならんだろう。それは本覚思想といった「此岸」の話ではない。我々はどこまでも「彼岸」や「本覚」の「只中」で生死を学び尽くすべきではないのかな。

「仏法の大海は信を以て能入と為す」という言葉がある。「信」は信仰する、又は信じるという様に私の側の作業として受け止められているのが一般であろう。頭で理解できるもの、或いは出来ないものにしろ、私が世界を受け入れる為の最初の関門のように考えられている。つまり、私の側の都合やチャンネル操作、自律が問われているものの如くである。然し、本来の「信」は、「法」という「向う側の都合」を全て受け入れて生きている今の事実のことなのではないか。

生まれて、生きて、死んでゆくという自然さの中で、ときにいのちを受け入れることができないという人間の悲劇がある。「今のこの命のまるごと」を肯うことができないという神の悪戯、悪意のごときに翻弄される私がいる。自分の都合通りに行かないことからの歯痒さ、苛立ち、世界への公憤。しかし、実際だれが私の命が今、是の如くあることの責任をとれるというのだろうか。生まれて来たことも生きていることも、生きてゆくことも、死んでゆくことも、すべて私の都合ではない。

自己や世界への「信」を問うているのはいったい何者なのであるか?「信」とは本来、私ではなく「向うの都合」ではなかろうか?どのような子細の都合か、私には解らない。解らないことを今更問題にはしたくない。というより、生きている今の私の命は「向うの都合」への答えとして生きているものの如くである。ないものをあるとみとめることなど神さまだって信じることは出来ないであろう。あるものがあるとして、ないものがないとしてあることが「信」の様子ではなかろうか。己れ空しければそういうことになりはしないか?

生きるという事実は、「信じる、信じない」という、こちら側の二律背反の問に応えるような頭の領域の作業ではなく、自律他律を包含した命全分の働きにみえる。「疑」や「無知」に囚われている当人にしてみれば世界が一面の闇であるには違いない。そのような因縁の者が宗教を求めるとは、まさに光りへの窓の在り処を手探りするようなものだろう。しかし闇に手招きしても見えはしない。言葉という方便が光りへと誘う。少なくとも言葉は「光りそのもの」ではないにしても、「光りの窓辺」へとは誘うだろう。そのような段階の「私の信」はあるだろう。

現実にそのように人々は宗教を求めている。然し、実際のところは徒党を組んでいてもいなくても、「光り」は宗派を越えて、絶対的な存在である自己の「窓」からしか差し込まない筈だ。そのようにして私は自己を確立し創造してゆく。自力他力を越えたものとして生きてゆくことができる。それを宗教と云ってもいいし、信仰をもっているといってもいい。もっといえば宗教と括られるようなものでない、人間の様々な日常のあり方、事実がそのまま「光りの窓辺」となることも大いにあり得ることだ。

「自己を知ること、生きること」に「信じる信じない」などというこちらの都合、作為は無用、邪魔なものではなかろうか。私の「信」などというものは本来ありはしない。強制など論外である。「世界と共にある自己、自己と共にある世界」を知り、生きる切るには、「向う側」からの「信」をまるごと抱えて行くしかなかろうと、私は思っている。私は「法」の「信」「到彼岸」「本覚」を今、ここに生きている。


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「みちのくなみだ二十句」

みちのくは泪も鹹き雪解かな

沖冥く潮蠢く震災忌

海原は淋しきところ彼岸西風

夢にさへ涙す春を傷ついて

雲に入る鳥の行方も知らざりき

落椿遺す言葉もなかりけり

花一輪波に引かせて雁供養

ものの芽に流す涙も回向なる

目瞑れば見果てぬ夢ぞ鳥雲に

原子炉は哀しき墓標陽炎へる

春泥に影を生みたる被爆かな

遺されしものに沖あり霞みけり

つばくらや山河破れしみちのくの

寄り添へる心にひらく菫かな

めぐり来る忌日や花のおもかげの

死や生に寄り添うてゐてあたたかし

ほとけみな遠きまなざし鳥曇り

面影や涙もろきも花のころ

死者生者雪の名残りを同じうす

三月や生きながらへてなみだ涸れ




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「ひとり」

グランドの空をつばくろ独り占め

踏絵せし父を一人にして置きぬ

馬鈴薯を植うる地の果て空の果て

雛納む妻がひとりになりたがり

月光にずぶ濡れてゐる朧の夜

独り世の片隅にゐて目刺焼く

ぶらんこや一人に慣れてしまひけり

蕨採る約束をして別れけり

風船や果てなき空の淋しさよ

一人哀しも春三日月にぶら下がり

春愁を持たせてもらふ一人づつ

石鹸玉跡形もなく空残り

春ひとり臼を転がしゆく男


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「手応へ」

佐保姫の縄を解きにゆくところ

巣箱仕掛ける幹を貸してはくれぬかと

薔薇の芽や戦後生まれも古りにけり

囀や手応へのなき一日の

花びらの寄り添うてゐてあたたかし

馬鈴薯を隠すやうにも植えにけり

怠け癖そろそろ蕨出るころの

捻くれて花とひらきしシクラメン

ずぶ濡れてしがなき恋の尻尾かな

鳥帰るめぼしきものもなくなりて

春休みつかひ切れざる空があり

雛納むひとりの夜を灯ともして




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閼伽の水 その煌きぞ 観世音
南無観世音 いくさ終われと
Jigme Yonten
2017/03/14 11:07

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