再生への旅

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zoom RSS 良寛と一茶

<<   作成日時 : 2017/03/18 07:08   >>

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また一人雪割草に来て屈む 玉宗

良寛は所謂、禅宗の中の曹洞宗の系譜に属するお坊さんであるが、果して良寛自身に宗派意識・セクト根性があったかと云えば、私はないと思う。あったのは、釈尊から道元禅師、そして良寛へと繋がる一筋の法脈。自己を照らし、今に輝く命の灯。それは宗派という結界を越えている。まっさらな自己の命に連なるひろやかにして孤独な道。釈尊は「犀の角のように一人で歩め」と云った。自己が自己の法を求める道。それは看板を掲げたり、旗を振って歩むような世界ではなく、世の一隅に、ひそやかに、あるがままに生きる道ではなかったか。良寛には、宗派とか教条の中で生きてゆく「求心」さえ抜け落ちた解脱の生き様が感じられる。

一方の一茶には凡夫として生きる逞しさというようなものがある。一茶が念仏や名号を唱えていたかどうか知らないが、どちらかと云えば妙好人とまではいかずとも、「一向宗門徒」の匂いがする。私などは川柳の先駆者と言ってもよさそうな彼の句に、どちらかと云えばときに理屈めいた響きさえ感じることがある。そこには、俳諧に遊び、あなた任せの世界に生きる苦労人一茶の、どこまでも凡愚な人間であろうとする、ふてぶてしさがあるのではないか。一茶にも又、良寛とは違った形で「求心」を捨て去った生きざまが窺えるのだ。思えば、命生きることに宗派も糸瓜もない。良寛はひとりの出家者として、一茶はひとりの世俗者として、ともにその生涯を生き抜いた。私にはそのことが限りなく尊く、輝いて見える。


良寛と一茶。それぞれ出家と在家に徹して生きた人間。私の中に未だにある両方への憧れ。出家にも徹しきれず、在家にも徹し切れず、出家でもあり在家でもあり、或いは出家に落ちこぼれ在家に落ちこぼれている人間。そんな人間が俳句をしている。



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「手抜き」

蕗の薹耳を濯げと水流れ

押入れに泣く子菜の花咲くころの

ゆふぐれは泣きたくなりぬ残る鴨

目覚め遅き谷の深さよ雉の声

虚仮の世をだうしたものか土手青む

母がりも春のしぐれに祟られて

父といふ仄暗きもの春火鉢

調はぬ初音や手抜きしたるかと

靴底の踵の減りや鳥曇

犬ふぐり徒に飯食ふばかり

淋しらの目につばくらの空仰ぐ

春愁や沖に白雲動くさへ

開け初めし空のざはめき山辛夷


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「自分勝手」

クロッカス名もなき朝が来てゐたる

里めぐる水のきらめき春彼岸

日あたりし薪のにほひや初蝶来

わがままな妻の肩揉む春炬燵

死にたがる母を背負ひぬ花大根

好き勝手に生きられもせず風光る

野に遊ぶ子を見てこころ足りにけり

山辛夷空は気まぐれ侮れず

菠薐草その日暮らしの気安さの

佐保姫を抱くには手間を惜しまざる

水の国泥の国なる燕かな

昼からはどこかなげやり茎立ちぬ

菜の花の翳を晦ます黄なりけり

囀りの自分勝手にして和する


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「洞」

龍天に登り水田となりにけり

大陸の夢を遥かに彼岸西風

霾や風の裔なる蒙古斑

草摘むや人を恕すに手間取りて

褒められも貶されもせず鳥曇

東風吹くと土手を歩めば荒けなく

風光る眉毛に白きもの見えて

垂乳根のふところ深き草の餅

餅にする蓬を採つて来いといふ

盲いたる如く初蝶来たりけり

血のいろは淋しき色よ赤椿

耳といふ春風を聞く洞かな

はだれなす雪に破れし苫家かな

目借りどき言訳ほどの仕事して





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