再生への旅

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<<   作成日時 : 2017/04/01 10:07   >>

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よるべなき空のあかるさ万愚節 玉宗

今日から4月。
北米の曹洞宗禅の研鑽生として渡米していた弟子も帰国した。古巣の専門僧堂へ帰単した訳だが、さてこれからの身の振り方をどうするのか。新しい一歩がまた始まっている。

仄聞するに、彼の地では坐禅が瞑想としての場として捉えられているようである。マインドフルネスとして逆輸入された坐禅の効用であるが、話を聞いていると「禅の修行」が極めて個人的な領域のものであることを知らされる。宗教とは本来そういったものであることからして当然のことではあるが、徹底個人の救済、解脱を目的とするものではあったのだ。キリスト教の影響もあろうし、個人主義の聖地で生きる参禅者に於いても個人的領域の一大事として「禅」が受け入れられている様である。

いずれにしても宗教には「自力」が必要であろう。それは「自力宗・他力宗」といった宗派や理屈の話しではない。最初の一歩、求心の方向性といった尽力こそが宗教の自ずからなる前提条件ではあったのだから。力をも入れずして仏の世界に遊化するといったようなことも、身を捨てるという尽力、脱力する自力があったればこそ浮かぶことができた瀬の様子である。

そんな海外事情を知るにつけて、日本に於いては「禅」として一般的であるというよりも、「禅宗」として先祖供養や宗教儀礼を司る「風習」としての受け入れ方の方が多勢ではなかろうかと思わされる。「禅」もまたその国の精神風土、環境と切り離せないものだと思うが、現代日本人の潮流や生活を顧みた時に、その宗教的曖昧さが果たして「坐禅」という「場」を必要としているのかどうなのか。「個人の自覚」を必要としているのかどうなのか。

又、教団自体に「組織の坐禅」といったバイアス、こだわりのようなものがあるのかないのか。そういったことを考えさせられる。個人主義の伝統がある彼の国の禅が、日本の伝統的「禅の風習」に風穴を開けようとしているようにも見受けられて久しい。



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「阿岸本誓寺吟行二十句」

万葉の里と伝へし菜花かな

北前の湊を今に沖霞み

鳴砂の浜に若布のうち寄する

春田吹く風にも貝の寄するらん

本願に西や東や陽炎へる

彼の岸へ渡る鐘の音朧なる

風梳かし宥めて枝垂柳かな

信心の足らぬと亀の鳴く方へ

賽銭の落つる音にものどけさよ

開山の風に騒めく木の芽かな

パンジーの光りはためく日なりけり

春愁が松ぼっくりを蹴りもして

主いまぺんぺん草のさ中なる

屋根替の結の馳走や濁酒

念仏の里のひだるさ蠅生れ

南無阿弥陀阿岸桜の目出度さよ

初蝶の紛れ込んだる大伽藍

山吹や古色蒼然たる家に

土筆和え一向宗の味がして

西を向く仏ばかりぞあたたかし




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「鳥」

朝はさながら港のごとし花に鳥

頬杖の彼方や鳥は雲に入り

花鳥と生まれ何かを失ひぬ

のどけさや鳥の記憶の爪を切る

鳥の巣やてのひらほどの大きさの

木々はみな鳥呼ぶかたち芽吹きたる

囀りを聞くといふより降り被り

名も知らぬ鳥来てせかす遅き日を

百千鳥空に深入りしてをりぬ

天上に鳥の声ありうらゝけし

さよならに慣れてしまへり鳥曇




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「泣砂の浜」

明日知れぬ空のあかるさ万愚節

泣砂の浜にひたぶる雁供養

うち寄する波にも春の調べあり

海原は淋しからめと光る風

春愁の砂の足跡波が消し

潮騒や浜大根の花陰に

海越えて来たりし蝶の動悸かな

古草に坐れば夢の沖が見ゆ

初花や沖に屍のゆらめきて

パンジーの花には強き海の風

白妙にひた寄す春の潮かな

砂も泣く朧月夜となりにけり













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