再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 仏戒とは?!

<<   作成日時 : 2017/04/25 04:51   >>

トラックバック 0 / コメント 0

画像


憎めないところがだうもチューリップ 玉宗


「仏戒とは大地有情同時成道と制止することなり」

戒とは単なる抑制ではない。仏法という命の話しであり、命の根っこからのなりゆきでなければならない。あれをしてはいけない、これをしてはいけない。ああしろ、こうしろ、といった倫理、道徳という人間界隈の次元で済まそうとしても決着できない欲望の始末の仕方がある。根本からの決着を期している人間の智慧がある。世界と一体であるが故の無私。無私なるが故の一体世界。私とかあなたとかという我他彼此のないところ。執着や拘りのいらないいのちありのままの様子がある。

不殺生というもありのままの命には殺生に執着する理由がないのである。不妄語というも一体である命には嘘をつき人を騙す値がないのである。不戯論というも比べられない命には戯論する甲斐がないのである。一事が万事、私の執着を越えたところで生きている今の命の事実がある。その端的に帰る。帰命。この目覚めを授戒とは言うのではないかな。命に箍を嵌めることでも、嵌められることでもない。どこまでもわがいのちの解放、内外放寛への歩みであろう。思えば、人間とはどれほど命を浪費し、無駄にしていることか。執着、無明といった足ることを知らない欲望。そのような欲望が人生の主人公になってはいないか。私がいてもいなくてもなんともない、なにがあってもなんともない、欲望を越え誤魔化しの利かない、そうであるからこそののびやかないのちの世界。仏弟子とは本来そのような領域に身も心も委ねて生きているもののことである。

「懺悔・さんげ」とは罪を悔い改めることであるが、戒を授かるにあたって当然の事として戒を受けるべきこちら側のあり様が問われている。仏道はありのままに生き生かされることには違いないのであるが、煩悩まるけのままでいい訳がない。自己という器に仏法を授かるには器がある程度空っぽであるに越したことはない。理想的には底なしの空っぽ状態が望ましかろう。故に真の懺悔とは口先だけの話ではない。身と口と心からの自然な成り行きであるのが本来であろう。そのなりゆきとは、妄想や執着の実体の空なることの目覚めということ。本来空の実体に目覚めて生きる、それをしも仏道とは言いたい。

戒を授かる前提としての懺悔とは言うものの、それはあくまで理屈であって、その実際は授戒と懺悔は同時行である。どちらもいのちの目覚めの機縁を角度を違え、方便して語っているに過ぎない。懺悔した、授戒したといっても、いのちの実際に段階がある訳でもない。いのちはいつも全分的に躍動している。得てして、私が懺悔した、私が戒を授かった、私が悟った、私が仏法を体現している、などという屋上屋を重ねるが如き見解の愚かさに堕しているのを見かける。というより、わたくし持ちの見解を持ち歩いていると言うべきか。これをしも、裸の王様、偶像崇拝とは言うのである。

仏道はどこまでもこだわりのない、ひろやかな命の地平を歩むものでありたい。冷暖自知とは命の真相、実体は誤魔化しの利かない世界を生きているということを語っていよう。冷暖ばかりではない、迷悟も、生死も、凡そ二律背反する命の矛盾さ加減という代物は自己にしか解り得ないものであり、且つ、そうであるからこその救い、成仏なのであると言いたい。

そのような次第であってみれば、仏道とは自己究明以外の何ものでもない。自己を生きるのは自己のみ。この極めて当たり前な事実を私は逍遥と頂いていきているだろうか。この極めて絶対的な命の事実を知足して生きているのだろうかということだ。自己の仏道の歩み具合を顧みた時、その余りにもお粗末な道行きに唖然とするのが常である。そのたびに何遍でも懺悔を繰り返す。仏の顔も三度までどころではない。生きている限り懺悔を繰り返しながら一歩でも仏道を進もうと心掛ける。それがそのまま、半端な私と言う人間の生きる意義、醍醐味となっていることを懺悔しておこう。


画像



「法事二十句」

のどけさのそれは大きな欠伸かな

偶に来る実家の裏の春子榾

同胞はときどき他人花は葉に

蒲公英の絮吹く風も情けあり

椪柑の出臍を父に供へけり

経文に微睡みゐたる目借りどき

説教も上の空なるつばめかな

退屈で死ぬことはなし木瓜の花

開け放つ北の窓より墓見えて

日に飽いて山吹散るやほろほろと

墓穴を覗けば春の闇しんと

墓石にへばり付きたる花の屑

胡葱を摘んで墓域を後にせり

住職がぶら下げてゆく竹の子を

昼酒に煮ゆる腸田螺鳴く

新茶呑み泥を吐かされ愚痴を言ひ

少し不便な実家のお玉杓子かな

臍の緒の仄かに暗き竹の秋

仏見しまなこに著莪の花清く

落椿法事終へたる次の日の



画像




「覚え」

生まれたる覚えなけれど亀の鳴く

馬鈴薯の芽が出るころや伊勢参

これやこの娑婆捨山の沖霞

恩知らずの猫が素通る木瓜の花

蠅生まれ父が裸になりたがる

少しづつをかしくなりぬあたゝかし

剪定や空を清々しくして畢る

音に出ぬ風にふるふる錨草

風車風を持たせて貰ひけり

沖に湧く雲に力や望潮

穴出でし親爺の顔に覚えあり


画像


「砺波」

風も雪崩るゝ砺波平野ののどけさよ

立山を沖とし霞む散居村

チューリップ砺波の空のあかるさの

あいの風呉羽は梨の花盛り

庄川は根雪の里や山桜

鶯や渓深く淵碧くして

陽炎や山高くして海深く

行く鴨を見送る鴨や川暮れて

石楠花や惜しみなく日は山里に

谺せる山の深さよ落し角

立山を盾とし風も東より

嶺に湧き沖に暮れゆく春の雲

青麦や砺波は風もたひらかに











テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
仏戒とは?! 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる