再生への旅

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zoom RSS 摩訶不思議な世界

<<   作成日時 : 2017/04/28 04:19   >>

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家絶えて鰊曇りと聞くばかり 玉宗

摩訶不思議という言葉がある。

私が私として生まれる確率は約二百五十兆分の一になるということだ。奇跡といってもいい。まさに大いなる不思議、思いを越えている。私は私の思いを越えた世界からやって来て、思いを越えた世界へ去って行く。本来そこに迷いというものは予定されてはいない。迷いがあるのは生きている間のことか。しかし、生きていることは「思い」だけの世界なのか。いのちとは「思い」だけに支配されているものなのか。今も、ここに思いを越えた命を生きているのではないのか。

私共はいつのまにか人生を思い通りにしたいと願うようになる。分別がつくとはそういうことでもある。人生の荷物は少ないに越したことはないが、人は好んで「思い」という荷物を背負い込んで人生を歩んでいるようにも見える。貪りを離れられない、頑なな心がそこにはある。
思い込んでは娑婆にうごめくことの愚かさ。思いを越えて、己を無にしたものだけが今、ここを真っすぐ生きることが出来る。自己の真相を見定め、なりきる。それこそが仏道の面目である。あるがままなることの尊厳を素直に受け入れることのできる柔軟なこころ。

今も、ここに、魔訶不思議なる命を戴いている事実。成仏している私がいる。そのような目覚めは「行」という「歩み」によって齎されよう。「縁」は理屈ではない。不思議なるものである。私一人の力量を遥かに越えている。世界と一体であるからこその、取るに足らない存在。そのような一如なるものとして生起している。思いとは思いを越えることを望んでいる。分別は分別を越えることを待っている。欲望は欲望を越えることによって満たされる。
今、ここに、なりきる。それが成仏。生は死によって生たりうる。そこには、あるとか、ないとか、といった問題すらない。

迷いを手放すことによってしか、なんともない摩訶不思議なる世界をわがものとすることはできないであろう。仏道の救いとは欲望や思いを満たすことではない。それらを越えた世界に消えてなくなることだ。








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「日なた日かげ」

蛙鳴く日なたと亀の鳴く日かげ

金鳳花お伽噺の怖ろしき

蠅生まれもの憂き部屋の日なたあり

海と空といづれ恋しき燕かな

ぬるま湯の如き日なたや木瓜の花

間違へて土竜貌出す茶摘唄

著莪の花日かげ育ちのあかるさの

春愁や孔雀の翅を披くさへ

目を借りて眠る日かげに臍曲げて

虎杖や風の鹹きもふるさとの

春遅々と日なたの好きな母とゐて

一八や襟を解いて匂ひたち

寄する波引く波夏の隣りして

ときじくの雨のにほひや花は葉に




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「小筐」

折からの雨に留守居や春惜しむ

桜蕊降る頃といふランドセル

小ぬかなる雨に染まるや花海棠

桃の花少子高齢化の村の

鬼となる淋しさ風の光るさへ

藤咲くや空の碧さに底ひなく

蒲公英の絮吹き消すや口窄め

花水木秘密の小筐ひらくかに

燕の巣肩寄せ合へるしづけさの

生家絶え鰊曇りと聞くばかり

蹲に溢れてゐたる菜種梅雨

満ち足りし春闌の憂ひとも

逃げ水を追へば見知らぬ記憶あり

而して名残りの花を仰ぐのみ


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「牛の心地」

のどけしや牛の心地がしてならぬ

芝桜これみよがしに幸あれと

虎杖を噛めばしょっぱいふるさとよ

踊子草道草覚えたる頃の

田蛙の泥に溺れし声かとも

老鶯や山深く空深くして

女学生春闌の声発し

どちらかと言へばゴリラより蜂が

花屑の吹き寄せられし水田べり

つばくろの飛ぶといふより流れけり

惜しみなく山に日当たる蕨かな

どこへも行かぬ母の手になる豆の花

愛憎や桜蘂降る町に生き

ふるさとの打たれ強さよ桃の花

鳥葬に借りだされたる雉子かな
















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