再生への旅

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<<   作成日時 : 2017/04/09 12:45   >>

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逃水を追うて捨てたるふるさとよ 玉宗


北海道渡島半島噴火湾沿いにある漁師町が私の生まれ故郷である。
今頃の季節は天然昆布の採取が始まっているだろう。養殖昆布が普及した現在では一年を通じて地元で働けるようになったらしいが、昔は夏場はどの家でも一年で最も忙しい稼ぎどきだった。家族総出は当たり前。私も小学生のころから櫂や櫓を漕いで父の磯舟に乗っていた。四十年過ぎた今でも舟を操る自信がある。朝日の登る前から舟を海へ出し、一斉に漁場へ向かう。当時はまだ船外機を持っていない家もあり、先頭の小型船に十艘程がロープで繋がられ引っ張られてゆく。それが子供の私には結構スリル満点。それでも船べりから腕を出して波しぶきを作っては遊んでいた。漁場に着くとロープが外され、銘々昆布があると見込んだ波間に留まる。潮の流れが速い時は錨を下ろすことがあるもだが、大概の人は櫂を暇なく操って定位置を確保していた。私にはそれが中々難しく、いつの間にか潮に流されては父を困らせた。しかし、そんなときでも父は私を怒鳴ったりしなかった。流された処でまた棹を降ろして昆布を探していた。私は父に叱られた記憶がない。

父の昆布採取の技は「名人」だという人もいた。所謂、箱眼鏡を使わないでも海底の昆布の在り処を探り当て、竿にからめ取ることが出来た。毎年何処に昆布がよく生えているかを知っていたようで、海へ出ると遠くの山並を見てはいつもの穴場を計ることができた。父は欲がない人間で船縁から溢れんばかりになると「もういいだろう」と手を止めた。父はそんな漁師だった。父と二人で小さな磯舟で津軽海峡の当たりまで延縄漁に行ったことがある。沖へ出るに従って海の色が変わる。その怖ろしいまでの深さを想像させるに余りある群青の海。大海原に浮かぶ父と二人きりの小さな磯舟。陸では見せない頼もしい父の姿がそこにはあった。その時は大きな真蛸を釣り上げて、父も私も声をあげて喜んだものだった。そんな父は酒好きで、素面の時は寡黙な父も酔うにつれて饒舌になり、母に踈まられていた。母に内緒でよく焼酎を買いに行かされたものだ。
「焼酎の四合瓶をください!」二キロ離れた酒屋さんで私はいつもそれだけを言って、大事な四合瓶を落とさぬように抱えて走って帰った。夜の烏賊釣り漁に父はいつもそれを持って行くのだ。夕暮れどきの船出に遅れてはならなかった。 

「様々だなあ・・」と呟くのが父の口癖であった。そんなときの父の表情を未だに忘れられないでいる。それは好きなお酒を呑んで酔いの勢いを借りたときだけではなく、素面の折りにもしばしば耳にした。子供心にも不思議な響きを持った言葉だった。人の噂話を聞き及んだときや人間模様に思いを致しているようなとき、又は、テレビでの事件事故の報道にふれたときなどに思わず零れでる、そんな言葉だった。「呟き」という、救いようのない吐息のような言葉があることを初めて知った。あの正体はいったい何であったのか、大人になってからもずっと気になっていた。そんなある日、酒に酔った父が当時中学生だった私に絵を描いてみせてくれたことがあった。父は学歴もなく、小さいころから漁師として生きて来たのだと思い込んでいた私であったが、酔った勢いながらも出来上がったその絵は、子供ながらにも「ただものじゃないな・・・」と心動かされるような墨絵であった。

「様々だな・・・」苦笑とも、羨望とも、恥辱とも、諦念とも、呪詛とも聞こえたその呟きを私は忘れられない。父の語ることのなかった人生への無念さが、思わず口を突いて飛び出したかのようで、子どもながらに同情を抱いたものだ。思えば、子供という可能性は大人の呟きやため息に敏感に反応し、聞き洩らさないものなのだ。父の夢、それも、叶うことのなかった小さな夢を垣間見たような気がした。そして、そのような父への同情と共に、見てはならない父の秘密を見てしまったようなやるせなさもあった。大人という人生の沖の寂しい風景を垣間見たということだったのだろう。後にも先にも、一度だけの、己の魂の秘密を子供に明かした父。人生に光りと影があることを教えてくれた父よ。

大正生まれの母は、その当時の田舎では珍しく女学校を出ていた。父との馴初めがどのようなことであったのか知らないが、漁師の妻となったことに愚痴を言うことはなかった。少なくとも子供の前では。そして、よく働いた。働き者だと言う評判は町の誰もが認めるほどであった。ものごころついた頃には父と二人して冬場の出稼ぎに出て行った。家事は勿論、畑仕事や浜の作業も、怠けるということができない性質ではなかっただろうか。日銭稼ぎの浜仕事もよくしていた。半農半漁の暮しを支えていた母の手はとても女のものではなかった。

夏場の昆布採取時期は勿論のこと、漁期が過ぎた後の、海荒れの浜にでて、寄せて来る千切れ昆布を鉤竿を使って拾い集める。それは冬場まで続いた。台風の日でも浜に出てゆく。私は時々母にくっついて昆布拾いの手伝いについて行ったのだが、ある日、母が大きな波に浚われそうになったことがあった。幸い母は必死で岩にしがみつき難をのがれた。私はその一部始終を見ていた。小さい私に何が出来ただろう。泣きじゃくりながら「かあさん、かあさん」と呼ぶのが精一杯なのである。母は私に笑ってみせて、また何事もなかったかのように、昆布が打ち寄せる次の波を待っていた。それからというもの、天気の悪い日に一人で浜へ出て行ったときなどは、母が無事で戻ってくることを小さい胸を痛めながら待っていたものだ。海岸沿いにあるわが家から一里ほど山に入ったところに畑があり、母はモッコと呼ばれる背負い籠やリヤカーを曳いて出掛ける。お昼に一度戻り午後からまた出て行く。学校から帰って母の姿が見えないときなどは、妹と一緒に畑まで母を迎えに行った。リヤカーに載せてもらったり、母の後先について歩いて家まで帰る道程の楽しかったことを忘れない。

父もそうだが、母もまた要領がいいという人間ではなかった。昭和三十年、四十年代、ものの豊かさを求めることが当たり前の時代。それは地方の小さな田舎の漁師町でも例外ではなかった。父も母も結果的にはそれについていけなかった人間である。家族の為に社会に迎合しなければ生きていけないことの哀れさ。思春期の私にはそれが口惜しくもあり切なくもあった。当時の私には、その切なさだけが唯一実感できる目に見えない確かなものだった。そして、この、いのちの切なさは誰にも解ってもらえないだろうと直感し絶望していた。お人好しで、無学で、馬鹿正直で、機械化の時代の流れについていけなくなっていた両親への思いは愛憎半ばなのであった。風邪を拗らせ晩年の父は喘息に苦しんだ。母は働けなくなった父へ愚痴を言うようになった。そんな両親を見ながら一緒に暮らしていたのだが、内心は彼らのために自分はどう生きていけばよいのか分からなかくなっていた。

私は父の漁師を継ぐことはなく地元で公務員になった。その間、実家へは仕送りを続けていた。亡くなった二つ違いの兄も家を継がなかったので、父と母のことはずっと気にかかってはいたのである。しかし、両親への思いだけでは私を安定した生活を約束されている公務員に留めさせることはできなかった。自分のやりたいこと、それは他にある筈だ。それがなんであるか解らないもどかしさ。焦り。苛立ち。生きている私の存在意義、生きている私だけの意味、神から約束された指定席のようなもの。夢想と覚醒を繰り返し、ありもしない人生を朧に夢み、脚色し、自らの闇の中で酔い浪費した若き日々。

その手応えのなさ、虚しさ、不健康さに自ら嫌気が差したある日、私は役所へ辞表を出した。何をすると決めていた訳でもなかった。とにかく辞めたかったのである。僅かな一時金を貰って実家へ戻った。母は哀しそうな顔をしていたが、馬鈴薯の芽を掻く手を休めることもなく言うのである。

「しょうがないね。お前のやりたいことをやればいいよ。母さんや父さんのことは心配しなくていいから。」

私は自分のどうしようもなさを持て余していた。回りが見えなくなるくらいに。申し訳ないと思う。世界で一番世話になった人を愛しきれない自分へのもどかしさ、やるせなさ、弱さ、その両刃の刃は私自身を傷つけかねなかったのだ。いや、傷つけていたのかもしれない。その反動は肉親や故郷と訣別するという選択へと進ませた。私にしてみれば、自立しなければ生きている意味さえなくなりかねなくなっていたのである。その後、何度か転職し、世間に多少交わり、結果として自分の立ち位置を追い詰めて行った。痛い目に遭わなければ解らなかった人生の真相、唯一実感できる私のいのちの切なさ、喜び、なにげなさ、尊さ。人並みとは言わない。私だけが歩ける私の道、あるがままなる自己との出会いへの歩みがあるのではないか。

「俺は父さんや母さんを殺したがっていたのかもしれない。」自立しなければ潰されそうな私がいた。

私にとって故郷は断ち切りたい柵でもあり、頼りになる絆でもあった。乗り越えたい壁でもあり、癒される花園でもあった。今でもそうだ。私は何のためにこの世にうまれてきたのか?私にしかできないことは何なのか?というようなことに若いころから随分と悩み、迷いを重ねてきた。挙句に親と故郷を捨てて出家の道を選び、なんとか今日まで生きた。お坊さんになってからもいろんな事があり、綱渡りのような人生といってもいい。死んだ母や父にとっても私という存在はどのようなものだったのかと思うことがある。できることなら生涯傍に居たかった。お坊さんという生き方を選択したのは逃げでもあり、又ひとつの賭けだったのだ。然し、振り返れば、人生とはこうであらねばならないというようなものではなく、日々の出会いの中で、あたらしく創造されてきたものだった。皮肉なことに親や故郷を捨てて、人生の真相を学んだのである。

北海道を離れた数年後、私のあとを追うように父と母は私の元へ漁師生活と故郷を擲ってやってきた。その時の両親の無念さや心細さはいかばかりであっただろう。その後、両親は姉夫婦と暮らし、私は心置きなく出家の本懐を遂げる。父も母も、出家した私が導師となり引導を渡した。人生の皮肉というには笑うに笑えない。出家は親不孝の極みであるとも言えよう。一子出家すれは計り知れない功徳があるというが、私のような出来そこないの仏弟子では六親眷族・七世父母も戸惑うことであろう。父や母や先祖を生かしめ、死なしめた大いなる因縁の力、無常のめぐり合いの中で、今の私も生かされて死んでゆくだろう。両親から授かった今生の私のいのちを全うすること。それが私の親孝行であり、供養のあり方。それが取るに足りないお坊さんの戯言だとしても、命生き、生かされ、死んでゆく一人の人間の真心、原郷の声であるには違いない。私は私の命に賭けるしかなかったのだ。

私は亡くなった両親に対して未だに負い目がある。実姉夫婦に二人の面倒を見てもらい、二人の晩年に付き添うことをせず出家したことだ。出家が人生再生の一つの賭けであった私。自分のことしか考えることができなかった愚かな息子ではあった。そのような恩知らずの人間が住職になって何回も葬儀をしている。父母の臨終に立ち合うことはできなかったが、二人の葬儀には駆け付け、私が導師として引導を渡した。やすらかな死に顔を見て些かの安堵感があったのを記憶している。「北晨院海徳義道居士」「南窓院帰法妙依大師」北海道の海に生きた父とそれに最後まで付き添った母への、せめてもの贈りものであった。親の晩年や臨終に付き添うことをしなかった負い目からだろうか、今では家族や檀家さんの生老病死をしかっり見つめ、寄り添いたいといった思いがどこかにあるようだ。どうしたら一度限りの今生のいのちを、後悔なく生き切ることができるのか。それを生老病死そのものからしっかりと学ぶこと。遅まきながらも、それが亡くなった父母に寄り添えなかった私という人間の業であり、尚且つ両親への回向なのである。

人生とは、儚い、一瞬の命の夢、創造物、芸術のようなものかもしれない。美は儚さの兄弟のようなものだ。永遠の命と云うものがあるとしたら、それはまた頗る孤独な、出来の悪い創造物のように見えてくる。「死すべき命であることを忘れるな」それは確かに賢者の言葉である。と同時に、余りにも人間的な言葉でもある。一寸先は闇であるからこそ、死ぬべき命であるからこそ生が輝くのであろう。それはまた、儚い命である人間同士への寄り添いによってこそ獲得できるものなのかもしれない。人はひとりでは輝かない。人や自然の中にいることで照らし合う存在なのだろう。私が私として生き、死ぬ、それだけのことに惜しみない天の采配がある。原郷の風景がある。思えば不思議なことであった。





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「監獄」

虚子の忌や類ひまれなる類想句

銭湯にふぐりくつろぐ虚子忌かな

監獄を出でてそのまゝ花人に

花筵浮いた心地がしてならぬ

花篝芝居染みたる京の夜の

花見より腑抜け貌して戻りけり

花疲れNHKを見てゐたる

淋しらの花のあかるさありにけり

空冷えて花の愁ひといふものを

生き死にに憑かれし花の世なりけり

父母のなき世久しき桜かな

てらてらと泥を磨きて畦を塗り

囀りや仏生まれて来たる日の

牡丹とはとても思へぬ芽なりけり



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「初」

猫の仔のまなこ波々してをりぬ

初花のひらかむとして濡れそぼち

朝に夕に息吹き返す春田かな

花の世にひとり冷飯食ふをとこ

春の夢ふんだりけつたりしてありぬ

一つづつ影を置きたる落椿

雪柳光りさしぐみ枝垂れけり

初めての夜はまぼろし落椿

道草も覚へ入学式帰る

死の床に墨のにほひや花曇

ぶらんこや性懲りもなく初めから

牡丹とはとても思へぬ芽なりけり

逃水を追うて捨てたるふるさとよ









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