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zoom RSS 今日の言いたい放題・俳句のおもしろさとは?!

<<   作成日時 : 2017/04/15 12:39   >>

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亀の声死んで生きよと聞こへけり 玉宗




俳句鑑賞にあたってよく耳にし、口にもするのが「おもしろい」といった言葉である。最短定型詩としてのおもしろさといったものがある。言葉そのものや言葉の斡旋や描写による対象への、或いは対象からの感動、発見、諧謔、認識、韻文性、調子、気息、人柄、感性等々。その多種多様な面白さを痛感するものこそが俳句の面目とも言えるだろうし、又は、面白さの多種多様性こそが俳句の醍醐味なのかもしれないと思ったりする。

「古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉」

この句の「おもしろさ」を指摘する識者は少なくはない。芭蕉が切り開いた侘び寂の嚆矢とも言えるこの作品には、当時の「場」があってのこその「おもしろさ」なのであると指摘したのは長谷川櫂ではないかな。古池の句だけではなく、古俳句の多くはその季語一つとっても、俳句の宇宙の変質を来しているのではいかという指摘。造化に従うことを可とする俳諧もまた、不易流行に棹さして現代に繋がり未来をきりひらく俳句の宇宙を創世しつづけているのかもしれない。
そのような視点からすれば、俳句の醍醐味とは「あたらしみ」といって過言ではない。それは単に時代にもて囃されるような作品を作るといったような徒花的話しではなく、俳句の輝きそのものでもある、今を生きる俳人の「いのちのかがやき」そのものでなければならないだろう。対象の輝き共感する俳人の感性の輝きがなければならないだろう。いのちの輝きそのものに老若男女や貴賎上下や有象無象、天地の隔てはない。老には老のいのちの輝きがあろう。若には若のいのちの輝きがあろう。男には男のいのちの輝きがあろう。女には女のいのちの輝きがあろう。山川草木、一木一草、行住坐臥、四苦八苦、生老病死、天地自然の運行、当に造化に従ったいのちの輝きがあろう。俳人とはそのような輝きに敏感であり、最短定型詩という構造を以って表現する者のことを言うのではないか。
 
話しが些かねじれるが、現代は若者がもて囃され、嘗ての若者であった先生諸氏は指導や批評や後継者育成に余念がないかの如き様を呈していている。若者が俳句をするのは宜しい。若者ならではの詩的世界を表現している若者俳句は確かにあるだろう。若者は俳句をするなともの申しているのではない。私が不思議でならないのは、大人や先生と呼ばれる方々が後継者を育てるのに汲々として、それでこと足りているかのごときお目出度さを感じるからである。このようなことは大人げないこととして、だれも言いはしない。

若者よ、俳句にうつつを抜かすのも結構なことである。大家を志すのも悪くはなかろう。いい大人になってもそのような夢をみている人間がそこいらじゅうにいる。そのような人生の途中で絶望もしたことのない人間を私は信用しない。元気が良すぎる人間というのもはた迷惑なものである。世の中は大人がいつも面倒見てくれると思い込むのは実にあさはかであると言わざるを得ない。世の中は甘くもなければ辛くもない、実に見下げたものであり、また見上げた化け物のような代物である。昨日の甘言が今日の諫言ともなり、昨日の友が今日の敵ともあり、その反対もある。時代の流行とは実に当てにならないものである。だからこそ救われもし、厭になったりもする。清濁併せ呑んでいるのが世界の実相であろう。この世は若者の為だけにあるのではない。この世は生きるものの為だけにあるのではない。あの世は老人の為にだけあるのではい。あの世は死にゆくものの為だけにあるのではない。俳人とは本質的に人であって人でなしである。
 
マスメデイアや俳壇や協会という代物も、本質的に俳諧の誠と相いれない領域のものではないかという疑念が私にはある。俳句だけではないが、社会一般の風潮として束にかからなければ良いものが生まれないという錯覚がありはしないか。俳句と云う大衆文藝は個々独立の詩精神が目指す不特定多数の解放された世界ということなのであって、数を頼まなければ成り立たず、楽しめない文藝だと言っているのではあるまい。また、作者以外の鑑賞、詩的関与を俟っての俳句世界ではあるが、すべてを丸投げして鑑賞者に委ねる筋合いのものではあるまい。先生や指導者や師匠や判定者といったものがある文藝の世界とは実に畏れいったものに成り下がってはいないか。
 
俳句もまた腐っても自己表現である。表現と云うからには基本的には自己更新でなければならない。日々新しくなければならない。生死への潔さは文台降ろせば即ち反古、といった潔さに通じよう。又、俳句は自己を語るものではないが、自分の感性を後回しにしていいという話しでもなかろう。意味のない俳句、重くれない俳句、言葉に過剰な負担をかけない俳句、俳句文芸もまた言葉の遊びなのであって期待しすぎない俳句、一見そのような俳句を可とする現代事情のようであるが、それもまた一過性のものに過ぎまい。なんにしたところで自己を蔑ろにしてすまして良いわけがない。そのようにもの言い、言挙げする俳人もまた自己を蔑ろにしているとも思えない。否、現代人は誰よりも自分大好き人間に成り上がってはいないか。

俳句のおもしろさ。それは畢竟、作者ではなく、世界の普遍性が見えることのおもしろさであろうか。作者のまなざし、その感性、その気息、その人間性を越えたものが捕える世界。つまり俳諧の誠と呼ばれる所以のもののことである。反省と自戒を込めて言うのではあるが、批評と実作とは言いながら、現代俳人は、その批評も実作も自己中心の世界で済しているが如き有り様ではないのか。マスコミや俳壇や組織や若者にかまっておる暇はないのである。日々遺作となる作品を私は生み出しているだろうか。



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「白雲」

啄木忌旅の駅舎に訛り聞き

改札を出れば花影能登鹿島

菜の花や一両電車ゆらゆらと

白雲に乗り遅れたる春愁ひ

霾るや郷を追はれし眼差しに

パンジーや愛なき日にも朝が来て

囀りや凄まじき日々また始まる

餡パンに花の臍ありあたたかし

蕎麦がきや花冷えの身を温めむと

愛妻の二の腕まぶし花ミモザ

垂乳根は日向のにほひ桃の花

雲となり海をわたらむ啄木忌


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「子」

鳴く声もやはり蛙の子なりけり

お玉杓子海のものとも山のものとも

馬の仔やつかず離れず駆け回り

子雀や苦労を知らぬ顔をして

親雀ときどき欠伸してをりぬ

孕み鹿経典蔵す如くなる

揚雲雀子を差し出しにゆくところ

春ひとり蚤を潰して親もなし

捨てられしこととも知らず鳴く仔猫

蟻穴を行つたり来たり覗いたり

鳥の巣が明日をもしれぬ高さにて

おそるおそる村一番の鯉幟


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「ふらりと」

ふらりふらりと春やたのしも春やかなしも

目を借りに能登も和倉の辺りまで

家を出てふらりと亀の鳴く方へ

たつた一人の父なり春を闘へり

これ以上背伸びができぬ土筆かな

雪柳湧き出て枝垂れのたうちぬ

敷き延べて花のパレット芝桜

丘を吹く風のあかるさ花いちご

木漏れ日は森の福音蝶の舞ふ

遠足を戻れば家の仄暗き

野遊びの空や引き摺り落さうな

夜桜をくぐるや闇に濡れそぼち



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