再生への旅

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zoom RSS 実体・「空」なるもの

<<   作成日時 : 2017/05/04 07:13   >>

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雨を呼ぶ風のにほひもあやめ草 玉宗


「空」とはつまりものの実体に関する定義である。
ものの実体とは何か?現実とは実体とどのくらい懸け離れているのか、いないのか。懸け離れるとはどういうことか。それそのもので満足しない私の我見や妄想がある。我見の世界を実体とするには余りにも憚れる現実の行き詰まりや齟齬がある。何かがずれている。そのものとは何か?

 私は実体を望んでいる筈なのであるが、ときに我見や妄想の世界の展開に有頂天になり、茫然となり、絶望したりしている。こんなことでいいのだろうか?といったいわれのない自責の念のようなものがときに起こる。それよりなにより、、いのちの充実感といったものが希薄である。もの足りなさのようなもの。満たされない欲望の残滓、或いは翳のようなものが湧いたりする。

そのようなことを点検するにつれ、実体・事実とは我見の起こる前があって、それが本当の私の心の在り方なのではないかということに気付かされる。実体と我見は本来離れているものである。これから離れなければならないような筋合いのものではない。視点を変えるならば、我見といわれる認識作用には何も実体はないと言ってよい。 ともに「空なるもの」のみである。
 
「空」という事実が、そのままあったりなかったり。それだけ。我見の立てようがない。これは坐禅の様子を述べているに等しい。一切皆空、本来空の、どっちへどうころんでも、なんともないいのちを生きている。そのもの、実体の世界に生きることの意義はそこにしかない。「わたし」という「我見」は竟に無明の根本、巣窟といって差支えない代物である。人生には様々な岐路がある。生きるとは常になにがしかの選択の連続であるとも言えよう。生老病死の人生の折々、人は苦悩することも多いのであるが、それらも又一つの岐路であるに違いない。
 
人が生きているということは、全て初めての体験、一度もやったことのない生活、その時、そのことが在るだけ。いつも初心。いつも初体験。 赤子は赤子で今を初体験。十七歳は十七歳で今が初体験。二十歳は二十歳で初体験。青年は青年で、中年は中年で、晩年は晩年で、臨終は臨終で、生老病死は生老病死で初体験。諸行無常とはそういうことである。取り返しがつかない、取り返す義理もない今の、新鮮な、縁起を生きている、その事実をいのちとも言い、今とも言い、私とも言う。

「いや、そんなことはない。今日も昨日も代り映えのしない日常の繰り返しであるし、去年と同じ暮らしぶりである。相変わらず癪に障る奴がいるし、相変わらず思い通りにならないことばかりではないか。」

このようないのちのさ中の認識とは竟に無明のアリバイみたいな代物である。認識とは、ものを認める心であるが、ものを認めて執着をする危うい人間性がある。愚かさとは、人間のそのような認識を金科玉条としてさ迷う話である。仏道とは、いのちの事実を真っ直ぐに見ることが試されている。

実体とは取捨選択、選り好みに左右されない。必ず世界と一如になって動かざるを得ない代物である。眼耳鼻舌身意、六根清浄にして、そのものずばりである。いつも、今、実物として決着がついている。それそのものとして清浄、かたがついている。それを「道」とも云い、「心」ともいう。それは人の「見方」といったようなものではない。事実そのものの様子、といったようなものである。

仏性の性とは「可能性」ということではない。誤魔化しの利かない世界を生きている私。それは私という諸行無常の端的の様子である。仏道の理想とはつまり、ありのままに生きることである。実体がものをいう世界である。欲望を越えて生きるには、いのちの事実に従順である以外にないということだ。

仏道は「考え方」や「哲学」や「教養」といった認識界隈で留まる話しではない。今、ここに、息をしている事実、そのような覿面のいのちの戴き方の話しである。無一物にして来たり、無一物にしてし去る。一物を背負っているのは誰か?本来清浄なるわが身ひとつの決着のことであればこそ、難行であり、易行でもある所以である。

私はついに実物なるいのちから逃れられない。空なるままに実物してゆくしかないのである。



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「新刊」

新刊の空よ五月の来たりけり

マーガレツトきれいさつぱり風吹いて

夢に破れし麦藁帽子見当たらず

棺桶の隙間出でたる蜥蜴とも

楽園を見放されたる蝶かとも

余り苗ラブホテルより五六歩の

茎立菜勝手口より二三歩の

焼却炉蕨山へと続きをり

夏近し言はれてみればさうかとも

逝く春の波打ち際に来てゐたる


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「天地」

天駆ける風芳しき鯉幟

明日は舞ふ花のかたちの水木かな

花あけび空に影して遠かりき

はらからの淋しき天地種を蒔く

独活掘るやひねくれて木にならぬ間に

たらの芽やだれも見向きをせずなりぬ

八十八夜母が寝息の豊かさよ

地に咲いて星のつめたさ著莪の花

花冷や天地にいのち一つづつ

蕗摘むや金毘羅宮の山の辺に

奥院へ蕨の腰を折りながら

金鳳花むかし豚舎のありし跡

朧月里に瓜坊出るころの

青麦や風は天地の果てまでも


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「草の名」

草の名にかよふ心や春惜しむ

涙子が草のやうにも昼寝せり

乙女さぶ白詰草を編みしより

草引くややり直せると思ひつゝ

火の国に生れし仔馬草千里

さり気なき別れもありぬあやめ草

翳のある女佇む蝮草

昏くほそき川の流れや蟒草

踏み込みし草の丈にも春深き

をだまきや草書のやうな女客

草も眠る春三日月の夜なりけり












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