再生への旅

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zoom RSS 正法としての禅

<<   作成日時 : 2017/05/13 06:24   >>

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木漏れ日の眩しき夏の来たりけり 玉宗


「正しさ」とは何だろうか?

「正しく生きるとは、正しい生き方とは?」といった自問自答が時々首を擡げる。何をもって「正しい」「正しくない」と判別するのか。「価値観や判断基準」が人や団体で異なることはよくあること。時代や国によっても差異がある。

「正」は「一に止まる」と書く。「一」と何か?

もしかしたら、誰にとっての正しさなのかという枠組みの中での話なのかもしれない。「一」は最大公約数的な指標なのだろうか。そのような「正しさ」は様々な関係性の中でのことに他ならない。「正しさ」に拘るということは関係性の作用と反作用に過ぎず、そして恐らく、そういうことだけの話なのだろう。「正義」という様々な「義」があり、ときに争うことがあるのも又よくあることだ。そのようなことは宗教界に於ける「易行難行」「自力他力」などといった「定義」の話に於いても同じ程度の、謂わば自分勝手な問題である。

禅はそのような「一」を立てない。

禅で言う「正法」の「正」が示唆するところの「一」は「相対的一」ではない。「絶対的一」といったものである。二見や言葉や定義を遥かに超えて、今、ここに、かくのごとくである、いのち、の様子。自己の内外に展開する生起したり消滅するという事実。これを「一」「神」「自然」「無限」「仏」なんと呼ぼうが人が生きて行くという「関係性」の中では少しもぶれないし、揺らぎもしない。命の実相、実物。

「一如」なるもの。

そこでは独善もなく、争う理由もなく、食い違う事もない。このような「空なるもの」に真向かい、受け入れ、関係性を再構築する。そこでは「私」というネックになるものは必要とされない。価値判断、行動規範がいつもそちらを向いている生き方。そのようにして自己に寄り添い、他己に寄り添う。それが禅に於ける「正しさ」ではなかろうかと認識している次第である。



興 禅 寺 通 信   

○人生とは、儚い、一瞬の命の夢、創造物、芸術のようなものです。美は儚さの兄弟のようなもの。永遠の命と云うものがあるとしたら、それはまた頗る孤独な、出来の悪い創造物のように見えてきます。「死すべき命であることを忘れるな」それは確かに賢者の言葉であると同時に、余りにも人間的な言葉です。一寸先は闇であるからこそ、死ぬべき命であるからこそ生が輝くのでしょう。それはまた、儚い命である人間同士への寄り添いによってこそ獲得できるものです。人はひとりでは輝きません。人や自然の中にいることで照らし合う存在です。私が私として生き、死ぬ、それだけのことに惜しみない天の采配があります。原郷の風景があります。思えば不思議なことですね。今、ここの縁を大事に。合掌
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

○五月十六日「釈尊御誕会・お花祭り」があります。
毎年嗜好を代えて参詣者の皆さんに楽しんで貰おうと考えているのですが、なけなしの智慧で忸怩たる思いです。今年は穴水在住の堂田真子さんに「健康体操」を実演指導していただきます。お年寄りにも簡単にできる体操だそうです。講師として参加して下さっている方々はみなボランテイアとしてご奉仕頂いています。お誘いあわせの上、是非お参りください。

興禅寺の住職となって二十五年が過ぎています。これまで毎年お花祭りを行って参りましたが、ずっと總持寺通りを引いて歩く「象さん」があればいいなと思ってきました。自分で作ることもできず今日まで過ぎてしまいました。まあ、言ってみれば住職の「夢」の一つではあります。ということで、今回、「花祭りの象さん」の施主を募集致します。門前の子供たちに「お花祭りで興禅寺の象さんを引いて歩いた」という思い出を作ることができたらどんなにうれしいことでしょう。それもまた、住職の「夢」ではあります。檀信徒を問わず多くのみなさんの御心に呼びかけさせていただきます。

詳細はお寺の方までお問い合わせください。合掌。




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「教外別伝二十句」

總持寺へこれより一里花さびた

夏安居の始まつてゐる鳥の声

婿多き門前町や初袷

嫁も来ぬ村の竹の子貰ひけり

簾越し夢もうつつも托鉢も

いふなれば教外別伝すまし汁

三界をふりさけみるや洗ひ髪

寺町を竿竹売りや夏初め

風にそよぐ禅の一文字夏暖簾

蓮の葉の鉢にゆらめく御用達

仏弟子は殆んどをのこ苔の花

山門を一歩出づるや片陰り

ぼうふらや閼伽の水面にぶら下がる

總持寺の藪蚊舞ひ込むり理髪店

雲のこころ水のこころや更衣

蟻がゆくときどき鐘の音を聞き

方丈の軒にひもじき燕の子

寺を出て用水泳ぐ蛇となる

欲に塗れしまなこ濯ぐや夏花摘

卯の花や仏弟子山に籠りけり



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「貝の耳」

夏来ぬと海の子われに貝の耳

はまなすや沖遠くしてやすらけく

口ずさむ唄は切なき浜豌豆

沖に湧く雲の力や卯波寄す

朝焼けの海に影して漁れる

故郷は昆布刈る頃や海に霧

櫂を漕ぐ少年一人雲の峰

北前の湊とし伝へ花蘇鉄

海猫鳴いて腸寒きあさぼらけ

蝶となり海を渡らん南吹く



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「鳥曼荼羅二十句」

飛ぶ鳥の眩しき夏の来たりけり

海はよ風の墓場ぞ夏つばめ

漆黒の闇に濡れたる鵜なりけり

御仏に子をさしだせと青葉木菟

雷鳥や白き山とて恐れられ

白鷺の鳴くといふより悲鳴なり

大瑠璃や森に深入りしたらしき

目を剥いてもの欲しげなる目白の子

旅に汚れし耳を雪ぐや閑古鳥

きようろろの渓に嘯く谺かな

暁の空に溺れし不如帰

十一や母を預けて帰るとき

神々の恋は曼荼羅夜鷹啼く

老鶯や峠越えなる旅一座

後朝の時を告げたる水鶏かな

翡翠の空に影して水破る

空耳か筒鳥山の逃れしか

美しき空を気まゝに練雲雀

仏法僧山を神とし崇めたる

海鳥や流れ着きたる島陰の












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