再生への旅

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zoom RSS 宗教とはなにか?!

<<   作成日時 : 2017/05/22 06:51   >>

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落日を遥かに都忘れかな 玉宗

「宗教」という言葉を耳にし口にしたとき、現代人はどのようなイメージを抱いているのだろうか。
凡そ、心から人と理解し合おうとするには提起する命題を定義し、その文脈と約束の流れの中での作業であることが望ましく、建設的であると思っているのであるが、その前提を定義する作業さえ難題であるのが人の世の現実。私が期待するほど人間同士は理解し合えない動物なのかもしれないと絶望したりもするが、理解し合いながらもどうしようもない社会の力学といったものがあるようにも見える。また、誤解しあいながらも成り立っている社会の平均感覚といったものがあるようにも見えて来る。

実は先日、自坊宛に送り主の名前も住所の記載もない封書が届いた。開けてみると何の挨拶もなく、ある宗教団体からの会報と会長の書籍紹介の印刷物が入っていた。折伏のつもりだろうか。それも他宗のお寺である私のところへ送りつけてきたのであるから、確信犯にしていい度胸である。

「宗教」を看板に掲げて他者を排斥するといったことが後を絶たない人類の歴史がある。どうしてそういうことになるのか。「宗教」とは人知を超えた世界におのれ虚しく縋り、ゆだね切るという定義が許されるとするならば、その前提として当然のように個人の尊厳が担保されてあると思うのだがどうだろう。様々な人間の欲望、様々な欲望の人間がいて、すべての存在が善悪なく救われるとは絵空事ではない。「宗」とはそのような普遍的なものであろう。

全ては「釈尊」とう教祖、または「法華経」という経典から始まっているのだろうか。そうじゃないだろう。全ては人類発生以前から続いている目の前に展開している誤魔化しのきかない生死の現実からはじまっているのではないのか。それはお釈迦様が作りだした現実ではない。教祖が捻くりだした現実でさえない。「あるがまま」という空なる世界の様子そのものであろう。釈尊や教祖はそこに目覚めたと存在者であるからこそ尊ばれるのではないか。仏弟子とはそのような存在の大前提を「あるがまま」に生きることを試されているのではなかったのか。「経典」という月をさす指に執着するのではなく、個々が「月」とならねば何も始まらない世界の話ではないのか。少なくとも個々の「月」を尊重すべきであろう。もしそうでないとするならば、私が属している「禅」と呼ばれる筋合いの世界は「宗教」と呼ばれなくて一向にかまわないし、呼んでほしくない。

「禅」は他者を蔑ろにするような「宗教」では決してない。どこまでも世界と一如なる自己確立を自己限りのテーゼとして切込み、決着する。それがそのまま他者を受け入れ、世界を受け入れるといった命の本来性への目覚めがある。そのようにして自己の本来性に生き、自己の灯に生き、他者と共に生き、世界をわがものとして生きる。生死をわがものとして生きる。そこにしか自己回帰はないし、往還の所在はないものと知らなければならんと思っている。それだけが釈尊成道の本筋に倣う仏弟子の本懐なのであると思って生きて来たし、これからも生きて行きたい。その点に関してはこれまで舌っ足らずながらも何度も述べて来たつもりであるが、いずれにしても仏道が「カルト集団」とか排他的である訳がない。

このような次第の私の生き方、それを「邪宗」と呼ばれることなど屁でもない。わが生をあきらめ、死をあきらめる一大事因縁の地平線上では、大した問題ではない。それにしても面倒なものである。人はどうしてこうまで理解し合えないのかと改めて嘆きたくなる。宗教者の揚げ足取りに終始している場合じゃないだろうに。お釈迦様に面目ない。もう一度出家したくなるよ、ほんとに。


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「青」

青嵐や見渡す限りふるさとの

胸に迫る空の青さや雲の峰

風かよふ土手青々と薫りつゝ

馬の仔や青き山脈蹴り上げて

青臭き風にうらぶれ葱坊主

葉隠れに青ざめゐたる実梅かな

青葉風昼餉過ぎたるむなしさの

海女ひとり青き黒髪梳る

青々と身籠りゐたる毛虫かな

海を来てそのまゝ青田吹く風に

命涸れゆく母の眠りや青簾

月青く浦の虎杖伸び已まず

添ひ寝せし夜の青さや夏布団



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「かかあ二十句」

昼寝より覚めてかかあの天下なる

白玉や母が手になる素朴さの

偶に来る伯父や麻服よれよれと

日傘して三行半の歩みかな

好き勝手に生きたる兄や靴白く

芍薬や固き蕾を突き上げて

子を抱いて一番風呂やあやめ草

山法師梢に花の降り積もり

カラー咲くひかり吐き出すやうにして

野に咲いて野に散るいばらつれなくも

山野辺の木苺を摘む母のため

夏帽子顔を失くして来たりけり

麦飯やたらふく喰うてむなしかり

パソコンの画面に止まる蚊なりけり

泰山木花の高さに風生まれ

鉄線に波打つ風のありにけり

花とべら昼はとと待つ蜑が家

夏菊を手折りて母の朝はじまる

いふなれば押しも押されぬ夏の蝶

朝が来る谷の深さの空木かな


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「旅」

旅を恋ふまなざし遠き夏薊

夏つばめ空の広さを量りかね

小満や風に抗ふ草の丈

子雀の逃げ惑ふとも遊ぶとも

茅花流し旅の駅舎を出てみれば

旅をせし肉のひだるさ昼寝覚

へこたれて半ば溺るゝ早苗かな

夏菊や村に一つの停留所

蒲公英の絮飛ぶついて来ないでと

昼暗く母寝かせおく竹の秋

垂乳根のいよいよすがれ余り苗

母が待つ実家の裏や花うつぎ

ほろほろと藤の花散る旅路かな


















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