再生への旅

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zoom RSS 写生俳句の可能性・客観写生とは?!

<<   作成日時 : 2017/06/30 05:14   >>

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不如帰空に深入りしたらしく 玉宗



当季の俳句ではないが、が、ホトトギス歳時記などから数句を拾って写生俳句の可能性を掬ってみたい。


大根を水くしやくしやにして洗ふ 高浜虚子

 近頃は虚子の唱えた「客観写生」なるものが頗る不人気の様であるが、以前から批判する方もされる方も「客観」という言葉に翻弄されているかのような不毛さが感じられてならない。
もとより虚子だって俳句文芸が主観を抜きにして成り立ちえないことを承知してはいた筈だ。彼が言いたかったのは独り善がりの過ぎる主観を先立てない「客観的なものの見方、感じ方」だったのではないか。四の五の言わせぬ屹立した作品としての存在感。彼はそれを客観写生としたのではないのかな。虚子にとって俳句は自己を語ることではなかったということだ。俳諧とは地獄を見た後の極楽文学のことだみたいなことを言ってのけた虚子である。主観俳句に汲々としている俳人のお目出度さに辟易していたのだろう。

掲句には主観も客観も超えた、有無を言わせぬ写生俳句の真骨頂がある。潔い詩精神がある。

水底を這うて流るゝ落ち葉かな  島田刀根夫

 澄んだ水の流れ、その底ひを落葉が流れてゆく。それも這うて流れてゆくと描写している。見事に映像を再現した写生力。表現力。見入ることによってこちら側も研ぎ澄まされてゆく感性と言葉。削ぎ落ちてゆく主観。写生俳句の面目を目の当たりにする。
 
落葉掃く音の静に遠ざかり    下田實花

 こちらは聴覚という感性の作品。聞き入ることによって見えてくる世界、物語。音が遠ざかるという表現はマイナーではあるが「落葉掃く音」と具象化した。それが「静」かに遠ざかるという容赦ない、隙のない、曖昧さを許さない写生力に脱帽する。

 
白衣とて胸に少しの香水を   東京都 坊城中子 「ホトトギス」同人。

「花鳥」主宰。ホトトギス系の俳句には確かに独特の切り込み、把握、切り方があるように感じている。客観写生を玉条としている彼らは吟行での触目、写生に長けている。所謂「立句」というより「平句」というべき切れ具合である。日常の断片、即吟のめでたさ・軽さというものがある。即刻即吟が身上なのであろう。確かにそれは一つの「伝統芸」である。然し、それは「ホトトギス」の伝統芸であるかもしれないが、「日本の伝統俳句」の「芸」であるかどうかは私には解らない。大体、俳句の伝統性とは何だろう。伝統の俳句とは何だろう。いずれにしても、現代のホトトギス俳句は季題趣味とか事柄俳句とか予定調和の自然模写的世界だけではない。「平句」のマッスが創り出したある種の「軽さ」「ライトバース」の面白さは確かにあると思う。定型や季題を信頼し切っている無防備さ、無責任さ、油断さ加減が微妙な味わいを出している。それこそが大衆文芸の王国として今も君臨している要因なのかもしれない。

大夕立とて天界のひとしづく  金沢市 藤浦昭代  「ホトトギス」同人。

ホトトギス誌上で巻頭を戴いた折の一句だそうである。ある意味、おおらかな、諧謔な内容である。これも写生には違いないが、観念的な世界と言えなくもない危うさがあるのではなかろうか。「夕立と云ったって広い天から落ちてくる一滴に過ぎないのだ」と言っているのだろうか。それとも、「大夕立の先触れ」として「天から一滴の雨が降ってきた、というのだろうか?「とて」がイマイチわからない。いずれにしても、これは見立て、諧謔の句ではなかろうか?おそらくこの一句も吟行の折にものしたのであろう。文法的にどうだとかこうだとか、チマチマしていないおおらかさがいい。そのようなのどやかな、お目出たい目と心で捉えられた一句であるには違いない。彼らはこれを「存問」と言っている。

 
写生と云うものは簡単に言えば対象に即した感動をそれに最も適当な、その時一回限りの動かない言葉で描写することに尽きるのであるが、吟行句にはその時、その場の雰囲気、空気、心理状態のようなものが良くも悪くも作品に反映されるものだ。俳句は詠うというより結晶させるものだという指摘もある。ものを素直に見て感じる事がすべてであるとするならば、感動の正体をこそ先ず見極めなければならない。光るもの、それは言葉と一緒にやってくるかもしれないし、言葉より先に来るかもしれない、遅れてやってくるかもしれない。


故「風」主催・沢木欣一の言葉に次の様なものがある。

「現実そのままのナマな感動は、すぐには詩になりにくい。現実そのままの感動と詩的感動は質が違い、次元を異にしていると考えた方がよい。現実は詩因の宝庫であるが、詩となる感動は主として美を中心としたものである。対象の中にいかに美を自分で見つけ出すか、これが俳句では第一歩である。そして美的感動は訓練によって進歩するものである。」

松のことは松に、竹のことは竹に、命のことは命に、心のことは心に習うのが常道であろう。ものを習うコツは己空しく対象に入り込むことである。感動と云う木漏れ日はそのような何気なさに降り注ぐのかもしれない。その一瞬を逃がさず表現という網に捉える。優れた俳句が生れる可能性がここにもある。
俳諧もまた一期一会の、儚い、よしなしごとである。だからこそ、一句は光っていなければならない。客観的でなければならないとはそういうことだ。常識や主観でくすんでいてはならない。主観という狭い世界、または狭い主観に滞っていてはならない。いつも、今、ここの、出会いに自己を開放し、存問し、輝いていたい。



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「にほひ」

法王の逆鱗に触れ羽抜鶏

日に曝す鉄のにほひや蛇の皮

河鹿鳴く渓に育ちて名は拾

太陽に死出のにほひや立葵

不敵にも指の足らざる蝮捕

暮れてゆく水のにほひの鵜なりけり

竹婦人一線越ゑてしまひけり

吹きすさぶ風のにほひや栗の花

葭切や淡海に日の落つるべく

濡れてゐる髪のにほひや蛍狩

脚気病む僧眠りをり延寿堂

日を呑みし海のにほひや月見草


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「妻」

沙羅の花けふをかぎりの光りあり

風に舞ひ夢に破れし麦藁帽

妻とゐれば葛切甘し死ぬときも

銀鱗の水玉一つ蓮浮葉

芙美子忌や妻に小さき力瘤

酸漿のまだ灯点さぬ青さなる

端居せし妻や遠流の顔をして

白無垢の大山蓮華明日とひらく

犬も食はぬ仲の良さあり青くわりん

夜濯の水のゆくへや真くらがり


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「声」

佳き人に声かけらるゝ桔梗かな

夏座敷風が素通りしてゆきぬ

梅雨空にひとり淋しも鳥となり

虎尾草のまだいとけなき尾なりけり

囚はれの身となおもひそ西日さし

捩り花雨後のきれいな声とどく

氷室饅頭頬張りゐたる半夏かな

旅に疲れしまなこに仰ぐ夾竹桃

一つ散り一つ咲いたり夏椿

水無月やわらんべの声空にあり








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