再生への旅

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<<   作成日時 : 2017/07/21 04:47   >>

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海に鳴る鐘もまぼろし夏の月 玉宗


生きている私とは、空なるものを生きているのである。
様々な関わり合いの中で支え支えられ、癒し癒され、傷付き、学んでいる私という取るに足りない存在。私という掛け替えのない存在。あるとかないとかといった括り方が意味をなさない、相対的であり且つ、絶対的でもある領域そのものである矛盾に満ちた存在。矛盾そのものが生きる力となっているが如き空なるもの。

ときに生きていく力がなくなりそうになるときがある私への絶望。もっと生きていく逞しさが欲しいと思うときがある。ああでもない、こうでもない、四苦八苦のさ中で視野も益々狭くなり、ものごとの実相が見えなくなる。何かにつけておれが、おれがという被害妄想や慢心に苛まれる。執着や拘りという凝り固まったものを持ち歩いて生きては碌な事にならないのは目に見えている。人生を逞しく生きるにはどうしたらいいか。

仏道とは実相のままに生きること。
ものごとの実相とは空なるものであり、私という執着を遥かに越えてやってきたり去って行ったり、事がなったりならなかったりしている。因果歴然として誤魔化しの利かない世界での展開。だからこそ「私」にしがみつくに救いがないことになる。あるがままに生きることの易行にして難行なることよ。

柔軟に生きることのなんともなさといったものがある。ただ、そう生きるだけの事。唯、空なるままに生きるだけのことが私の往還するべきところではなかったか。仏道に行き詰まりはないという。行き詰まりとは竟に妄想である。いのちは一つも行き詰ってなんかいない。ただ、いつも、そうあるだけ。

いのち大事に生きるとは「私」に執着することではなかった。人生の一大事とは、生死にいて生死を超えること。あるがままの世界へ身も心も投げ入れる。諸行無常の人生を逞しく生きる力、それはいのちのあるがままの柔軟心のことにほかならない。いつも無記名にして且つ私だけのものとして尽くされている空なるもの。自在なるもの。それそのものと一体になって生きることが救いの前提として求められている。

だからこそ、わたしはいつもからっぽでなければならない。


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「葬式祭」

門前の葬式祭りしづしづと

神と仏と久闊を叙し夏見舞

山車過ぎる通りへ座敷開け放ち

本山の寺領に老いて水を打つ

ぞろぞろと神輿についてゆくばかり

渡御過ぎて犬猫渡り始めけり

山門を入るより蝉の声浴びる

遠音なる祭太鼓の恐ろしき

悪人とはとても思へず踊るなり

善人を少し逸脱して踊る

總持寺へ土用太郎の手を合はす

一夜さの神の宿りや夜の秋

浮かれ世のなどか淋しき祭かな



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「天地」

天地に生きて涼しき木陰あり

桔梗の小筐ひらくや音もなく

うつせみの縋るともまた祈るとも

蝉生まれ二度と帰らぬ穴無数

くちなはのをらざる如くゐてをりぬ

荷を下ろし初蜩を聞くばかり

残照の海の色にも能登晩夏

扇風機傍らにして隙だらけ

悪人とはとても思へず踊るなり

善人を少し逸脱して泳ぐ

外浦なる月に閉ざせし海の家



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「敦賀」

嶺南へ旅の光りも晩夏なる

峠より望む海光青葉潮

越境し敦賀へ下る暑さかな

涼しさや貝の花寄す色ケ浜

これよりの緑陰気比の大鳥居

見るかぎり白砂青松雲の峰

風鈴の音にも古き敦賀道

炎天に雲を耕す天狗かな

道元の越えし古道や合歓の花

海に鳴る鐘もまぼろし夏の月






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