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zoom RSS 何のために俳句を作るのか?!

<<   作成日時 : 2017/07/27 05:52   >>

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梔子のひらかむとして匂ひたち 玉宗

時々、いったい何のために実利にもならぬ俳句を作り続けるのであろうかと思うことがある。

嘗て、H氏賞選考委員も務めた「風」同人の西垣脩氏は次のようなことを言った。

「句をつくるということは、日常性に垂直な精神の軸を立てその場に刻々の自己を確認する操作であって、人間として生きるために択んだことだ。不完全な混乱した日常体験が表現によって完全な意味ある体験として秩序づけられるところに、詩の存在の意義がある、」 (「風」昭和35年9月号)

「日常性に垂直な精神の軸を立てる」とはどういうことか。

私という生き物を観察してみるに、具体的、現実的、散文的助走をする社会的横軸の生き物でもあるとともに、自己の命の深みに向かう哲学的、実存的、そして韻文的アプローチというものがある。

そして、そのような本来意義深い日常を何気なく流されるようにやり過ごしている私がいる。 「今が大事、今が大事」と言いながらも、その真相は目先の事象に奔走しているにすぎない空しさがある。

俳句はあからさまにものの言えない詩形ではあるが、それは沈黙の詩形といってもいいものだ。沈黙だけが命の深さと対峙できるのかもしれない。 日常における命の垂直軸と水平軸によって構築される世界。詩はそのような懐の深い沈黙の世界への歩みであり、真に心の豊かさへ通じる道の一つではなかろうか。

私にとって俳句を作り続けることは、そのような精神の軌跡を表現していることであってほしい。


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「鹹」

ふるさとの夢鹹く明易し

夏萩といふひと叢のそよぎかな

蜘蛛と生まれ空を遥かにしてゐたる

風はまだ幼き風船葛かな

新茶呑み泥を吐かされゐたりけり

花はみなまなざし深き桔梗かな

明日知れぬ空に恋して夏燕

夕べより朝むなしき木槿かな

河童忌の胡瓜がりがり食むばかり

夏薊旅に疲れし道のべの




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「さり気なく」

夏暁の雨の音聞きまた眠る

米櫃を覗いてゐたる土用かな

三伏の血を引き抜かれゐたりけり

大凡のわが世見えたり冷奴

青梅雨や飲食のやゝ疎ましく

羅や生きるも死ぬもさり気なく

虹仰ぐ思ひ出せずに忘れられずに

日傘して小さき陰を持ち歩く

攫はれて来たりし妻の洗ひ髪

湯帷子夜の向かうに恋をして

ときじくの雨にけむれる合歓の花

蜩や夕餉済みたる気怠さの

煌々と褥あかるき夜の秋


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「夕」

ふるさとの風を着こなす上布かな

鰻食ふ子を見て心足りにけり

行々子野垂れ死にせし辺りより

紫陽花のやがて消えゆく今日の色

梔子の花の終りや反故なして

雨去りし後かと思ふダリアかな

夕顔の実に見事な重さなる

夕さりし水の匂ひや蜻蛉群れ

褒められも貶されもせず夕涼み

稲の香に咽ぶ夕べとなりにけり

とどまらぬ月日の中の夕焼かな






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