再生への旅

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zoom RSS 今日のへのへのもへじ

<<   作成日時 : 2017/07/29 06:25   >>

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「鳥のみちけふは雲ゆく案山子かな 玉宗」



どうも昔から案山子というものが好きになれない。ふざけすぎではないかと思う。人間を馬鹿にしている。違うだろ。ちゃんとやろうよ、とも思ったりする。

でも、冷静におもんみるに、当初から人間を相手にはしていなかったんだよね。

鳥獣たちはどう見ているんだろうか。人間はあんなものだと感じているんだろうね。それもまた心外だな。まあ、分からんけどね。

それにしても最近の案山子は本来の趣旨を聊か逸脱しているんじゃなかろうかと心配する訳。まあ、余計なお世話だけどね。


でもって、蛇足なんだけど、

お坊さんもまた案山子みたいなものではなかろうかと。仏法という法を楯にして佇む歩哨みたいなものではないのかなと以前から公言してきた。

で、現代のお坊さんは上述の如き本来の趣旨を逸脱した案山子に成り下がってはいないか気になったりする。
いったいお坊さんはだれを相手に、何を楯として案山子という無用の用を為しているのだろうかと。

というか、そもそも自分を有用なる存在だという自惚れがないか。小奇麗な、そして小賢しい意匠を凝らした案山子をしているのではないのか。そんな自省をする謙虚な案山子には滅多に御目にかかれない。本物はどの世界でも少ないのだろうし、偽物でも、三級品でも需要があれば間に合うのがこの世の実際である。

私が本物に巡り合いたいのなら、私が本物になりたいのなら、ひたすら本物を探し回ればいいのだし、ひたすら本物の道を歩めばいいのだし、本物でありさえすれば事の済む話ではあるけどね。

というか、本物云々というより私が私そのものであるという実物でありさえすればいいのだ。それこそが仏法を楯にする歩哨である所以。自己の実物をもって生きることに徹する。それが成仏だろう。お坊さんという案山子が成仏していなくてどうして人を導き、執着を離れ、追い払う案山子たり得ようか。

私の言うお坊さんもまた案山子であるとはそういうことです。これで、どうにか、へのへのもへじになったかな。\(^o^)/



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「みひらく」

うつろへるもののかろさや蝉の殻

みはるかす来し方行方立葵

紫蘇を揉む水に仕えし母の手が

濡れてゐる夜の帷や雨蛙

また会へることの幸ひ百日草

鬼灯の紅きがうれし手に提げて

桔梗や折り目正しくみひらきて

さみどりの命さやけき小蜘蛛かな

抜きんでて向日葵よるべなかりけり

はち切れて紫濃ゆき茄子かな

生家なる跡形もなし草いきれ

蜩や儚きことに身を入れて



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