再生への旅

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zoom RSS 気づくこと、忘れること

<<   作成日時 : 2017/07/11 04:58   >>

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菩提寺へ子を差し出せと青葉木菟 玉宗


板橋禅師が金沢大乗寺の住職であった頃、本堂の柱に「足の裏で考える」という貼り紙がありました。マッサージ業界のコピーではありません。仏道が命の実感に参究することに尽きるという禅師様ならではの修行者への指針でした。

われわれは「考える」ことを人間の特権であり、他に換え難い能力であると思っています。頭の回転によって描かれた世界が文明を構築したことは否定できないことですが、人類始まって以来、というより神話が始まって以来の苦しみや迷いや愚かさも又、その「考える」という能力のなせる所業であるのが悩ましいところです。
 
考えたり、分別したり、悩む以前に、息を吸って吐いて、ものが見え、聞こえ、触れて、味わって、世界に反応している命の事実があるということ。世界と一体になることが修行の眼目であるとは、言い方を変えるならば、本来的に世界と一体であることに気づくことが求められているということでしょう。マインドフルネスといった外来語が逆輸入されている斯界ですが、気づくだけではなく、そこにはどうしても「自己を忘ずる」という「頭の世界」の放擲、棚上げ作業が不可欠であることを失念してはなりません。

分別の世界だけが命の全分ではないということ。先ず、生きている命の事実があり、私の言葉、私の考え、というようなものは後からの説明に過ぎません。説明が悪いというのではなく、その「先走る癖」「後追いする癖」が私の世界を狭小なものにしているのではないかという反省があります。

禅師様は「息をしているこの事実、これを仏という」とまで仰います。なんともない、この事実に立ち返ることを仏道とは言うのだと。「足の裏で考える」とは、この端的にして、具体的な命の事実を実感し、生きるバネとし、柱とし、力とせよ、ということではないでしょうか。今を生きている事実に足ることを知らないわが身、わが心。すべてが本物であり、生きている実物であることを肝に銘じ、余所見をしないで生きていきたい。




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「飛騨」

蕎麦食うて飛騨に暑さを逃れけり

田水沸き合掌部落しんとして

深沈と燠も清しき夏炉かな

掬ひたる清水ゆらめく光りつゝ

合歓咲くや湖底に沈む村いくつ

産土へ陰も涼しき杉木立

風誘ふ飛騨も奥なる夏暖簾

雪嶺を越ゑて一気に青田風

旅に聞く夜の深さや湯帷子

いや固き枕が下や河鹿鳴く

峡谷の夜の風音洗ひ髪

鮎食うて腸苦き宿りかな




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「つくづくと」

つくづくと素足あり道未だしも

ゆらゆらと海のものとも月のものとも

病葉やしんしんと気の触れ合へる

もうもうと煙り吐きたる梅雨茸

いきいきとタブーありけり羽抜鶏

筆舐めて星に願ひをさらさらと

生娘に難ありへくそかづら咲く

箱庭に迷ひ込んだる男らし

正気では中に入れぬ踊りの輪

鉄橋の汽車へ手を振る川遊び



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「味」

ばたばたと朝がきてゐる木槿かな

白玉や母の味して以来なる

西瓜なる水ともちがふ甘きもの

堕落せし如くにトマト丸齧り

麦こがし意外と面倒な味の

飯饐えて母が不在の味したり

水羊羹きれいさつぱりとした味の

背負ふものなければないで心太

憎めざる妻が氷菓を欲しがりぬ

味気ない音して胡瓜味はへり

冷奴味はひ深き顔をして

竹床几こころならずもさらばうて

夏風邪と言うて聞かせし子の涙

しやうもない男についてゆく日傘

蜘蛛を愛せし兄より老いてしまひけり

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