再生への旅

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zoom RSS 貪りからは何も生まれない

<<   作成日時 : 2017/08/21 06:01   >>

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くわりんの実ごつんと落ちる夜の屋根 玉宗


興禅寺の先代は当時の祖院監院鷲見透玄老師が兼務されていた。
亡くなる一年前に私に住持職を譲り、晋山結制も済ませた。爾来25年、住職として、そして一人の社会人として今日まで食うにも困らず、餓えることもなく過ごして来られたことに改めて生きることの縁、その不思議さ加減に思いが到るのである。人の一生の食いぶちは生まれた直後から天命で決まっている、といったことも言われる。布施とは貪らざることとは、実に至言であり、どんなに貪っても己にあたわるもの、ほどこされる分といったものは手の着けようがないのが私の実感である。

山門の二輪という言葉がお寺にはある。一つは「法輪」。お坊さんとして勤めるべき仏法教化、それが十全に法輪として回転しているのが理想である。もうひとつは「食輪」。お寺の常什が仏法維持のために十全に賄われて回転しているかどうか。「法輪転ずれば食輪転ず」といった宗門の口伝もある。お坊さんとしてやるべきことをちゃんとしていれば、食うに困ることはないといったような事だ。これは一般的にも言い得る、いのちとは施し、施されつつの存在ということと同義であろう。

人間が生きている実際のところは、食うために生きると言い切ることができないようなところがある。それでは、生きるために喰うだけなのかと言えばそうでもないのが本当のところでもあろう。

というより、食う為に生きるとは、又、生きるために喰うとはどういうことか、それは等閑にできるほど解り切った自問自答だろうか。生きる事は食う事であり、生きることは汗をかくことであり、働くことであり、考えることであるが、食う事はそれらを支える基本である。いのち生きるとはそのような人間の設問を越えて食べる作業に支えられて具体的にいのちしている。人間は食べることに対し傲慢になってもいけないし、遠慮し過ぎてもいけない。どちらかに偏向するのは間違っていよう。

生まれたときも、生きている今も、いのちは天地、自然、人間社会の施しを実践し、施しを受けていのちを繋げて来ている。食を施し施され、心を施し施され、身を施し施され、言葉を施し施され、生を施し施され、空を施し施され、実を施し施され、そして、そのような人生の最後は「死」という天地への回帰、最後にして、永遠に繋がる施しを実践しなければならない。先人がいみじくも言ったように、当にそのような意味では、生きるとは死ぬことの練習ではあったのである。生も死も施しの実践である。

この世に生を享けた天地自然からの施しがある。貪りからは何も生まれない。


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「野ざらし」

芋の葉や赤子包める大きさの

空は昔のまゝに老いたり胡麻の花

団栗やばたばた友を失うて

野ざらしの風に装ふ葛の花

蝶の翅引き摺り穴へ入るところ

墨染の袖長々と秋湿り

露草や訣れし人の数ほどの

盆過ぎの海仄暗しうごめきぬ

梨喰うて樽の心地やたぷたぷと

野晒しの行方も知れぬ芒かな






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