再生への旅

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<<   作成日時 : 2017/09/10 05:03   >>

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朝顔や家族といふも一期なる 玉宗


「願わくはこの功徳をもってあまねく一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを」

これは、「普回向・ふえこう」といって、宗派に関りなく称えられる、云わば、最も短いお経であります。私などは、ご法事のお勤めの最後にお唱えしているので、ご存知の方も多いでしょう。

永平寺開山、高祖道元禅師さまの教えに、「仏道の真偽」を見分けるには、「道」は「行」を伴うものであること、そして、それが自分一人ではなく、「一切衆生とともにあること」が「仏道」の本義に叶うものであるとお示しになっておられます。ここに言われる「一切衆生」とは人間だけではなく、山川草木悉皆成仏であるところのもの、平たく言えば、ひとを含めた自然そのもののこと。「縁」の世界と言ってもよろしいでしょう。

ところで、[行の実態]についていえば、「道」を言うことは子供でも易く、「道」を歩むことは大人でも難しいというのが実際です。また、「行の本質」に関していえば、私共は自らその為すところの志や動機を代弁するのに、「人のため」とか、「社会のため」と言いもし、耳にもするのですが、静かにわが心根を観察してみれば、それが、自己の見栄や保身など、欲の世界の延長である事に気づくものです。我が身一人のためを思うて為す事を、「何々のため」という隠れ蓑を借りて誤魔化しているのではないか。 
                  
仏道とは本来そのような誤魔化しの効くような世界とは対極にあるものです。
そこには、「縁に生かされている命」への目覚めと、「おのづからなるもの」への謙虚さがありましょう。我が身を可愛がるのが悪いというのではありません。裏表があったり、天地を欺けると思い込む「わたし」が問題なのです。先人が「道」のために我が身を惜しめ、と言い、又「道」のためには我が身を惜しむな、というのはその辺の微妙さを説いているのだと思われます。

さて、個人から集団、国家に至るまでの「行」、つまり様々な事象や風潮、事件や紛争を見聞するにつけ、「自分さえよければ」という精神的傾向が蔓延し、そこには「一切衆生とともに」という「自覚」が見当たりません。つまり「行」を裏付ける「願・祈り・信念」が感じられないのです。

なぜでしょうか?

人間が傲慢になったからでしょうか。未来への展望がなくなったことの不安からくるものなのでしょうか。私たちは未来の子供たちにどのような「こころの遺産」を与えようとしているのだろうかと、思わず自問してしまいます。

四季の変化や人生と同じ様に、社会もまた変化するものであり、それらに対応することがこの世を生きるということに外なりません。いづれにしても様々な構図の中で生まれる不安や不足は補い合い、平安や余剰は分け合うことが肝要ではないのでしょうか。

日々変化する「縁」の世界へ、それぞれが偏りのない、柔軟なこころをもって順応する(行ずる)ところに、自ずと「皆ともにわたる」世界が展開されるのではないかと期待しているのですが。




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「朝飯」

露けしやぶつぶつぶつと飯炊けて

腰巻の母は早起き芋の露

朝霧を脱ぎはじめたる山家かな

燦々と朝日に濡れし稲穂波

おかわりを母がよろこぶ鵙日和

草露に朝飯前の裾濡らす

食ひ足りて重たくなりぬ稲雀

口閉じて耳を塞いで椿の実

目を瞑りゐてもお腹の空く秋ぞ

誰もゐぬ仏間に秋の日ざしかな

雁や日和岬の羅針盤

朝に夕に帰燕の空となりにけり

なにげなき一日月を見て終る


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