再生への旅

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zoom RSS 布施は人のためならず

<<   作成日時 : 2017/09/11 05:13   >>

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芋の葉も赤子包めるほどとなり 玉宗

世に言う「情けは人の為ならず」は、人のためにならないから情けをかけるべきではないとか、結局は自分のためなのだから情けは大切なものだとか、世間では二通りの解釈があります。

「情をかける」という行為も一つの「布施」です。身と口と心の三業を以って貪りの世界に生きることもできるし、同じく三業を「布施」の世界に生きることもできる。人間は本来どのようにでも生きる動物です。その可能性は陽ともなれば陰ともなり、黒ともなれば白ともなります。手が為すところの業も、信心の実践として合掌することもできれば、自他を傷つける妄想の因ともなります。

金銭は言うに及ばず、言葉一つ、眼差しひとつ、微笑み一つ、こころ一つでさえ惜しみ、貪る人間。「心」という目に見えないものに人間はけっこう迷わされ、「もの」という目に見えるものに執着します。本来、ものもこころも、ただなんともなくそうあるというだけのことです。人間はなぜか、ただそうある事実をありのまま受け入れることができません。かたよらず、むさぼらず、へつらわず、身と心をまっすぐ生きることは容易ではありません。


「布施」もまた人の為ではなく、自己のまっさらな世界を更に清浄にするための行為です。「布施」は一見「一方通行」のようですが、実際のところは円相の世界の様子です。自他一体であるがゆえに、全ては自己の世界の様子であるがゆえに、本来むさぼる理由がない世界に生かされているのです。私の認識以前にいのち足りている事実があります。

「布施といふはむさぼらざる也」とは高祖道元禅師のおさとしです。身を捨てなければ浮かばれないこの世の瀬があります。溺れているからこそ悟りだ迷いだ損だ得だといった妄想という藁にしがみつくのです。言葉を変えれば「布施」の実践とは内外放寛ということです。こだわるものがなにもないからこそ施すことができます。無一物だからこそ捨てることができます。

死を孕んでいる生であるからこそいのち輝くのです。貪らず従容として命ありのままに受け入れ生きる。自他無窮。なにを以って自となし、なにを以って他となすのか。施すとは広く豊かで深くやわらかい一体一如の世界へ誘う行為です。それはお坊さんである私の生き方の本質であり、いのちの尊厳性の実践であり、自己の清浄な世界の表現でもあります。

布施は人の為ではありません。布施の彼岸にある自在の境地。私たちにとって仏弟子として生きることの意義もまたそこにあります。いのちお大事に。合掌




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「母」

山装ふさながら母の膝枕

花木槿嘘にまみれし朝が来て

母がまづあけびを食うてみせにけり

そろそろと終りにせぬか百日紅

叱られて空稲架下りる継子かな

運動会母がゐぬかと見回しぬ

ありなしの風にただよふ芙蓉かな

稲を刈るかたちに母の腰曲がり

暗くなるまで辺り一面蕎麦の花

夜なべせし母の音する枕元

















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