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zoom RSS 遠いから歩く・「精進とは?!」

<<   作成日時 : 2017/09/23 05:21   >>

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芋嵐葛の葉裏を返しては 玉宗


永福寺では毎月「今日はおじいちゃんの命日だから精進の日だよ。」といって、お逮夜の夕食から次の日の昼食まで肉魚を口にしないことになっている。その他のご縁ある故人の命日の日も同様。また私自身は祈祷や法要をお勤めするときは精進しなければならないことになっている。子供たちも生まれたときからそのようなお寺の生活でしたので、それが当たり前だと思っているようだ。食事にも文句は言わないし、お経の席にもちゃんと坐るようにしている。子供たちは平日よりは「精進の日」が特別な日だと感じているにちがいない。そう「感じる」ことが大切なのだと私は考えている。

ところで、肉魚を食べない事がどうして「精進」なのか、そして、そもそも「精進」とは本来どのような教え、生き方なのか?

「今日彼岸 菩提の種を 蒔く日かな」という道句がある。
「精進」はその菩提の種の一つであり、教理的に言えば六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)の一つ「精進波羅蜜」と言われるもの。「波羅蜜」とは「到彼岸」のことで、仏になるための真実の生き方、または、仏としての生き方ができているということになる。

「精進」とは本来仏道を歩む実践徳目の一つ。「道」のために、或いは「道」の只中をよそ見せず、真っ直ぐに余念なく不断に歩むこと。仏弟子だけではなく、世間に於いても「精進」とは「道」を支え、成し遂げるための、それはある種の自己制御と言ってもいいものだろう。道元禅師は「到彼岸」の「到」は「既到」と言わんが如しとも仰っている。そうなると「精進」の様子も世間的常識とは趣が違ってくることが分かるだろう。


肉魚酒そのものにを道を礙する本姓があるのではない。同じ水を飲んでも牛は乳となり、蛇は毒になるという喩えがある。「道」のなかで拘りなく肉魚を食し、酒を嗜む仏弟子がいるかもしれない。本来「精進」の形に決まったものはないのだ。いずれにしても、私が「精進」できるのは「道」があるからであり、また、「道」が「道」たるには私の「精進」があるからこそとも言えよう。「道」は「歩む」からこそ「道」と言われるのであり、それは他の五つの徳目も同様である。


名人と言われる方々はよく「道に極まりなし」と口にする。その辺が「精進」の秘訣であり真相を語っているのではないかな。「精進」という「歩み」そのものが、「道」という「遠いもの」の正体なのであり、「救い」もまたそこにあるというべきなのかもしれない。

遠いからこそ歩める道がある。道の救いがある。今がある。それこそが精進の実体ではないかと思っている。




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「寝返り」

明け方の妻の寝顔や冷まじき

露けさに堪りかねては寝返りし

朝寒く枕手探るがさごそと

さやけさやもの食ふほかに欲もなく

木魚打つ音にも澄める秋気あり

芋虫や腸熱く蠢めきぬ

菊纏ひ鎌倉征夷大将軍

罌粟を蒔く指の先より種こぼし

蟷螂の夢路果てなき山河あり

あんなところに言はれてみれば男郎花

白萩と見れば舞ひ立つ胡蝶かな

コスモスの半ばなげやりそしてかろやか

ふるさとの空より知らず蕎麦の花

鬼の子も末を思はむ夜半の月










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