再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 摩訶不思議な世界?!

<<   作成日時 : 2017/10/14 06:09   >>

トラックバック 0 / コメント 0

画像


蒲公英を吹き消す色のなき風が 玉宗

摩訶不思議という言葉がある。

私が私として生まれる確率は約二百五十兆分の一になるということだ。奇跡と指摘されても、正直なところ、ああ、そうなんだと言うしかない。まあ、わが思い、分別、見当を越えていることは理解できる。

私は私の思いを越えた世界からやって来て、思いを越えた世界へ去って行く。生まれた覚えがないながら、今、ここに、身に入みて生きている現実がある。越えてやってきたという事実には、迷いというものは本来予定されてはいない。ただ、そうなったということだ。

迷いがあるのは生きている間のこと。しかし、本当にそうだろうか。迷いとは何を、どう迷っているというのか。生きていることは「思い」だけの世界なのか。いのちとは「思い」だけに支配されているものなのか。今も、ここに思いを越えた命を生きているのではないのか。

私共はいつのまにか人生を思い通りにしたいと願うようになる。それが叶わぬことだと知り歯がゆい思いもする。分別がつくとはそういうことでもある。人生の荷物は少ないに越したことはないが、人は好んで「思い」という荷物を背負い込んで人生を歩んでいるようにも見える。貪りを離れられない、頑なな心がそこにはある。

思い込んでは娑婆にうごめくことの愚かさ。
思いを越えて、己を無にしたものだけが今、ここを真っすぐ生きることが出来るということだろう。自己の真相を見定めること。それこそが仏道の面目である。あるがままなることの尊厳を素直に受け入れることのできる柔軟なこころ。

今も、ここに、魔訶不思議なる命を戴いている事実。
成仏している私がいる。そのような目覚めは「行」という「歩み」によって齎されよう。「縁」は理屈ではない。不思議なるものである。私一人の力量を遥かに越えている。世界と一体であるからこその、取るに足らないわが思い。

いのちは一如なるものとして生起している。思いとは思いを越えることを望んでいる。分別は分別を越えることを待っている。欲望は欲望を越えることによって満たされる。

今、ここに、なりきる。それが成仏。生は死によって生たりうる。そこには、あるとか、ないとか、といった問題すらない。なんともない摩訶不思議なる世界をわがものとすること。仏道の救いとは欲望や思いを満たすことではない。それらを越えた世界に消えてなくなることだ。



画像




「樵」

行者道これよりときく野菊かな

山深く空深くして落つ木の実

水引の花の琴線風に鳴り

鳥獣こちら窺ふ秋木立

深みゆく山のよそほひたゝなはり

樵なる秋の木霊を聞く漢

峠路の能登沖見ゆる尾花かな

団栗や臍の緒ほどのあかるさの

ふるさとの空に冷あり蕎麦は実に

がまずみの実や赤々と山晴れて

遠目にもあれは零余子の蔓紅葉

根の国へ引き揚げてゆく秋の雲

山の日の陰りやすさよ赤とんぼ

色鳥や空の深みときそふかに

月影に濡れたる猪の蒐場かな


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
摩訶不思議な世界?! 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる