再生への旅

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zoom RSS 今日の百尺竿頭「般若を転じるとは?!」

<<   作成日時 : 2017/10/18 10:07   >>

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露舐めて来たりし僧や胡乱なる 玉宗


今日は永福寺の観音祈願法要である。
永福寺は昔から、祈祷寺として近隣の信者の帰依を得てきた。禅宗に於ける祈祷は大般若の智火を以って降伏災消を成就しようとするものが一般的であろう。その本質は祈りであり、それが天に通じ、地に通じるかどうか。祈祷師である私の法力が試されることになる。精進潔斎して事に臨まねばならない。

神通とは、自己が自己の命の深みへ尋ね入り、親密に出会うことであろう。
ぶれない一元の命の様子。そこが自己の落ち着き処である。気休めと人は言うが、気を休めることも出来ず、迷いと憂いを繰り返すことと、大いに気を休めて万事休することと、どちらが愚かな所業であり、どちらが再生に叶うだろうか?

普段、何気ない命のありようの中に、神通力は発揮されている。いつも般若が転じられている。
朝になると起きて、顔を洗い、便通し、飲食し、眠り、喜怒哀楽し、忘れたり思い出したり、無常に身を任せている今の様子。そのような当たり前のことが奇跡であると言っても一向に差支えないだろう。それが神仏に通じる唯一の道であると思う。今生の人身を得たことが既に無上の御利益である。そこへ立ち返り、再生を繰り返すこと。それが宗門の祈祷の面目であろう。世間に喧伝される自分さえよければいいという欲の世界の延長にある奇怪な、人心を誑かす御利益が普遍的なものであろう筈がない。

般若を転じ、般若に転じられ、般若が般若を転じ、般若が般若に転じられている今の様子がある。欲にしがみつくのではなく、まさに百尺竿頭進一歩が試されている。欲を越えたところへ飛び込むこと。目覚めなければならない所以である。


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「どちらでも」

しづけさに秋の木漏れ日剥落す

生かされて仏の母に栗おこわ

悪い子がゐてもきりたんぽは美味し

新蕎麦やふらりと旅の腹空いて

とろろ汁怒涛の如く生きて来て

衣被つるんと剥け我老いにけり

焚火守一番星に恋をして

古酒新酒戴けるならどちらでも

月給と縁なき暮らし雁渡る

絶頂を過ぎたる秋の昼寝かな

長々と尻地につけし種茄子

日だまりに乳の匂ひや泣角力

三峯の風の秩父や秋遍路

子を連れて賽の河原や芋煮会

傾城の昼酒旨し龍田姫

濁り酒野たれ死すとも可なりけり

露舐めて来たりし僧や胡乱なる

杳として臍の穴ありそぞろ寒

目瞑れば棺の中ぞ菊枕

銀漢へ愛されし身をよこたへて


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