再生への旅

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zoom RSS 般若を転じるとは?

<<   作成日時 : 2017/10/08 04:40   >>

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われなくて色なき風のかろさかな 玉宗


今月十八日に控えた観音祈願祭には、大般若経六百巻を転読し、導師である私は理趣分経という大分の経典を真読、転翻する。宗門の祈祷は「般若を転ずる」というところがその要旨である。
 
願い、祈りにも人様々な思いが込められている。それは人類発生以来のことと言ってよかろう。いつのころからか祈祷師が出現し、彼等は願主に神仏の意思を伝達した。或いは中には願主の願いを叶え、祈りを通じさせたという者もいたことであろう。それは未だ天地と人が未分化の時代のことである。自然の中で生かされていた野趣豊かな時代の話。私はそれを否定はしない。現代でも時々そのような事例が巷間より報告、伝聞されることが少なくはない。自然と波長を合わせることができる人間がときに出現する。今この時でさえ、地球上では多くの祈願の声が渦巻いているであろうし、それに応えようと多くの祈祷師が孤軍奮闘し汗をながしているかもしれない。
 
中には個人的視野の祈願だけではなく、公的な祈願もあるだろう。そのどれもが叶えられたと想像することはできない事はないが、到底可能な事ではないと確信している自分もいる。大方の欲望は虚しく叶えられることもなく消えてゆく。それでも祈願せずにはいられない私がいる。念じられずにはいられない私がいる。昨日叶えられなかった願いが明日は叶えられるかもしれないと思い込み、叶えられないことに失望し、果ては天地人を恨みかねない私がいる。
 
畢竟、ひとの祈願とはむなしいものなのかどうか。本来的に叶えられないものとそうでないものがあるのかどうか。一喜一憂し、右往左往し、喜怒哀楽し、毀誉褒貶し生死去来することを飽きもせずに繰り返して人生に弾みをつけなければ生きて行けない私がいる。
仏道はそれでいいのかと私を試しているのだと思う。般若経祈祷とはそのような人間の欲望の彼岸へ導き、気付く方便なのであると私は心得ている。

念じて花開くこと、因果は歴然であることは当然の現実であり、その因果律は時空を超越している。念じて、いますぐここに花が開く訳ではない。然しながら「念じているいのちの充足」は今、ここの姿であることは間違いない。般若とは諸法を転じるところの働きそのものであり、実相をして諸法ならしめ、諸法をして実相ならしむるものである。それは私の欲望の恣意を遥かに超えて行ったり来たり、あったりなかったり、かくあらしめているばかりである。今を今あらしめ、過去を過去あらしめ、未来を未来あらしめる。因果を因果あらしめ、諸行無常を諸行無常あらしめる。
 
般若を転じるとは自己の念を転じて自己をして自己に決着ならしめるということでもあろう。もとより、生きるも死ぬも、喜怒哀楽も、いつでもどこでも、何の不足もない、あるがままの命を戴いている。祈願とはそのような自己に何かを足したり、引いたりすることであって言い訳がない。まして自己以外の界隈に有為の祈願をめぐらすとは妄想以外の何物でもなかろう。念ずれば花開くとは般若を転ずることでなければならない。般若が自己を転じ、自己が般若を転じ、般若が般若を転じ、自己が自己を転じる。

また、念じるとは菩提心を起こすと言い換えてもよかろう。
欲望を越えたなんともないところへ自己を誘う「菩提心」。菩提心が自己を転じ、自己が菩提心を転じ、菩提心が菩提心を転じるのである。祈祷する私は願主以上に無心であらなければならない所以も那辺にある。共に無心なる領域へ躍り出るための「行」なのである。「空間」なのである。「有時」なのである。そこに感応道交する因縁が現成する。それをよしとするを以て信現成とはいうのではなかろうかと思っている次第。




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「かすかにも」

かすかにも免れがたき秋の聲

長月や空の色にも深さにも

ながながと太々しくも種茄子

高句麗の夢を遥かに馬肥ゆる

赤い羽根胸にさざめきこそばゆき

野葡萄やしぐれがちなる山里の

空深みほろほろ落つる零余子かな

しづけさに紅葉且つ散る美空あり

芒野やゆきて帰らぬ風ばかり

鳥渡る風の湖国となりしかな

地虫鳴くほかに音なき夜の庭

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