再生への旅

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zoom RSS 冬安居・雲と水と風のこころ

<<   作成日時 : 2017/11/17 05:21   >>

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托鉢の銭も手足もしぐれけり 玉宗

僧堂も冬安居の制中に入ったところが多いだろう。
禅の修行者のことを雲水とも呼ぶ。雲心水意。雲衲霞袂ともいう。世の毀誉褒貶、名聞利養を埒外に逍遥と道を求める青雲の志。誓願の道程。雲のこころ、水のこころをわがものとして犀の角の如くに生きてゆく。

縁に随って生きるという風のこころ、来し方行方といったものがあろう。
冬安居はまさに風の百日、風を盾とし、風を法とし、本来の自己の面目を戴く仏弟子の日々でもある。寄る辺なき諸行無常の人生に、風を起こし風となり、風をわがものとし、一切の捉われを越えて風になりきる。流れに随って来たり、流れに随って去り、流れに随って勉める。跡形を遺さず、諸行無常に掉さして、月を釣り、雲を耕す。永遠なる無がある。帰るべき無がある。

嘗て、鈴木大拙の言葉として伝えられている次のような言葉がある。真の自由とは何か、という設問に対して大拙は、肘を指して屈伸させてみせたという。

「肘に関節があることによって私は自由に腕を動かすことができる。」

命には生老病死という関節がある。無常という骨がある。関節や骨がない五体など考えられない。それはすでに五体を成してさえいない。生老病死や無常という関節・骨があることによって私は命を自在ならしむる。というより、命は本来的に自在であり、「私」の執着を離れている。執着も「私」という妄想のなせる業である。無縄自縛、有縄自縛、有無透脱の自縛他縛をわがものとする。それこそが雲水の醍醐味なのだろう。単なるボヘミアンでも、漂泊者であろう筈もない。

「捨」の実践を「行」ともいう。身を捨て、心を捨てる解縛の道。「行仏」は必ず「威儀」を具足するというのが宗門の習いである。雲水であろうが、住職であろうが、自己を縛するのではなく、自在ならしむる「捨」であり「威儀」でなければならない。「行」は人の数ほどある。雲心水意に適っているかどうか。本物であるかどうか。本物だけがそれに感応するだろう。

雲水のこころ、それは仏弟子としての初心であり、全てである。




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「頭陀袋」

ひとり世に銭乞ひ歩くしぐれかな

髪を剃る鏡曇れり神無月

賽銭の落つる音にも冬めきて

かくも小さき母の白足袋なりしとは

頭陀袋窶れて山の眠りかな

滝涸れてあらはとなりぬ不動尊

托鉢の銭を濡らせり初時雨

寺抜けし流れに洗ふ冬菜かな

さ迷へる風を枕や冬籠

夜爪切る親なき冬のしづけさに

濁世なる眼濯ぐや冬銀河




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