再生への旅

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zoom RSS 今日の禅語「担雪填井」

<<   作成日時 : 2017/11/23 05:55   >>

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白菜の重ね着したる重さとも 玉宗


担雪填井

雪を担って井を填む(ゆきをになってせいをうずむ)という禅語がある。井戸を雪で埋めようとするような無駄なこと、無駄な努力に解するのが一般である。以前記事にした「画餅」と似たようなものであるが、ちょっと切り口が違う。無駄な話はしない。無駄なことはしない。無駄なものは食べない。無駄な人には近づかない。といった思いに駆られることがしばしばある。

しかし、無駄とはなんだろう?
私の思い通りに無駄なものを無くしたら随分殺風景な人生になるかもしれない。畢竟、無駄という私の思い込みは怠け者の詭弁かもしれない。又、無駄であるとかないとか、その判断基準も手前勝手な、近視眼的な、あやふやな代物であることが多い。

生きるとは「縁」を生きることであろう。その「縁」たるや、無駄であるとかないとか、損得、利害、見解、効率を超えている。私にとって「今、ここの事実、出会い」が私の全てなのだということ。選り好みをせず、余念を交えず、ひたすら雪を埋めることに徹する。それが「井」という「今、ここのいのちの深さ」に叶う「救い」なのであるという。
いのちはいつも新しい。そのような今の、この事実は、理屈や判断を超越している。今に徹し、底に徹し、無常に徹している。

私のしていることは、悠久の時間の中でそれは無駄の最たるもの、虚しさの極みであるには違いない。しかし、本当にそうだろうか?命は永遠と共にある。今、私として生きている、この絶対的事実、この劇場以外の何処に永遠の幕が上がっているというのだろうか。私は永遠と共に生まれ、生きて、死んでゆく。私は無常と共に生まれ、生き、死んでゆく。宇宙には無駄なものもなければ有益なものもない。ただそうあったり、なかったりする実物だけがあるだけだ。

仏道とは実物がものをいう世界なのであり、それはあるがままという空しさを身上としてる。この禅語もまた、今に足りているいのちへの目覚めがあるのか、ないのか。それを試され、自問自答しているのである。


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「骨」

達磨忌や入口出口火の気なし

丹田に潜む息の根惜命忌

文弱に骨あり大根干されあり

遺言はひらがな樋口一葉忌

友が来ぬかと雪見障子を引き上げて

助手席に小春眩しみ居眠りす

骨箱に納まる暮れの早さかと

白菜のまだ玉なさずがさつなる

足下は疾うに暮れたり蓮根掘

小便の切れの悪さや鰤起し

骨のある男湯豆腐好みけり





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