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zoom RSS 選仏場とは?!

<<   作成日時 : 2017/11/27 05:40   >>

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面壁の背なに初雪來る音か 玉宗


坐禅堂の入り口正面に『選仏場』という扁額が掛けられている。仏を選ぶ場、又は選ばれた仏の場、そして文字通り「選仏の場」という理念が込められているだろう。

宗門においては「坐禅」が「自己の正体」であり、「自己の心地」であり、「仏道」の正門である。凡夫の私が「坐禅」という「形」に救われるためには、この五体を擲って、足を組み、背筋を伸ばし、わが思いを棚上げにして、「坐禅」そのものにならなければならない。否、ねばならないではなく、なっていればいい、と言いたい。ほとけになるのではない、ほとけでいるのだ。そこには「無為」という「持戒」がある。真の「自己」に成りきるために、そのような、ちょっとした「生きる姿勢」「身と心の脱力・開放」が「選仏の場」なのである。

「選仏」の「選」とは「作為」ではない。他の強意ではない。「自己を誤魔化すな」といっているのである。
金沢の大乗寺などでは在家出家の隔てなく、参禅会では順次堂内に入り坐らせている。宗門的にはお坊さん以外は堂内に入れないことが多い。一般の参禅者は外単と呼ばれる一画が与えられている。在家は選仏以前、という理屈も解らないではない。当然、仏弟子はそれなりの修行を積むことが期待されていると心得るべきである。どの道の世界にもそれなりの「選仏場」があるだろう。

修行というものも、本来の自己があるがままになるだけであり、何か一物を足したり引いたりするような代物ではあるまい。花は只そこに咲き切る。それが成仏というものだろう。競争や分別界隈の話ではないからこそ、それぞれが自己に厳しく対していかなければならない。それを仏道とも、宗教ともいう。

選仏を誤るものは何か?自己を晦ますものは何か?
誤魔化しがきかない世界を歩むことの在り難さというものがある。既に救われている自己のいのち、既に不足のない自己のいのちに目を開け耳を傾け心を忘れ身を捨てる。道を求め歩むとは、それだけのことである。それ以外の何を自己に求めようというのか。

「選仏」、それは自己の心地に開眼し、自己が自己になり切ってなんともない、只管なる、いのち限りの、今、ここの様子,知足の法である。唯我独尊なるいのちの尊さ。諸行無常の尊さに生きる。それは「私」という「煩悩」の恣意や都合ではない。「自己の本分」と謂われる「私の分別界隈」を越えた「いのちそのものの姿」である。仏弟子とはそのような方法で自己を生き、人を活かし、社会を往還する。



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「燠」

梢はさながら港のごとし笹子鳴く

けふもまた冬鳥一羽来たるのみ

羚羊の遠き眼に射てらるゝ

冬眠や夢を燠とし胸に抱き

狼に育てられたる娘とか

賑はへる森の晩餐ごろすけほう

冬鷺の肩を窄めしブリザード

火の玉を咥へ狐の去りにけり

薄氷を踏むべくありぬ鶴の声

遺言を抱きかゝへたるかじけ猫

軍港の如く白鳥来たりけり

振り向きし鼬の貌に覚えあり

雪の上に貂の足跡夜の果て

梟に呑み込まれしは母かとも

鼫や夜の奈落をひとつ飛び


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