再生への旅

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zoom RSS 無念に生きる?!

<<   作成日時 : 2017/11/30 05:12   >>

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薄氷を踏むべくありぬ鶴の声 玉宗

相撲界がまた揺れている。
引退表明をした横綱も、親方も、加害者も被害者も、協会も相撲愛好家も、そうでないものも、それぞれの「無念」を抱えているに違いない。

「無念」といえば妄念のないこと。迷いの心を離れて無我の境地に入り、何事も思わないこと。正念。というのが仏教的解釈の前提であるが、一般的には、くやしいこと。また、そのさま。「無念な結果に終わる」「残念無念」といったような通念として使われている。

人生思いと通りにはいかないのが前提。すべてが思い通りにいくこと自体が危ういし、あり得ない。魔が差す所以である。そのような事の成り行き次第である人生山河の中でそれぞれ力を尽くし、精いっぱいいきるのであるが、それでも間違い、壁に突き当たり、はね返され、無念のうちに表舞台から退却せざるを得ないことがある。謂れなき評価、理由なき処遇、烙印を甘受しなければならないことがある。なぜだろうか?

仏教的にはすべて自分が捲いてきたきた種の成せる業である。そのように現実をとらえる、まっすぐなもの見方、正見は言うは易く、自得することは難しいものかもしれない。人は分別が付くとともに自分持ちのものの味方、価値観、色眼鏡、癖を身にもこころにも背負い、纏ってしまう。それが間違いのもとだと仏道は諭している。

「無念」を晴らすには「無念」になるしか道はない。「念」を引き摺るのではなく、「念を超えたところ」に展開している今の事実に目覚めなければならんだろう。学ばなければならんだろう。「念」そのものは「有無」を超えている「無」なるものだ。本来的に「執着」する所以がない。改革すべきはそのような次第の命を戴いて生きている「己が念」である。執着を離れるべきは「己が念」である。捨てるべきは自分持ちの狭い正義感、主張、信念といったものであろう。

それはひとり相撲界に限ったことではないが、この娑婆世界に浄土という理想を掲げたいのであれば、拘らず、偏らず、あきらめず、貪らず、今を限りと力を尽くし、真心を尽くす柔軟なまなざし、こころが試されていることを知るべきであろう。むなさしが存在の真相である。だからこそ愚痴に生きるのではなく、だからこそ執着するのではなく、力任せではなく、暴力ではなく、柔軟に事に当たり、人生に対処し、寛容でなければならんのだろうと思う。

横綱の品格だけではない。国家の品格、民度といったものへ繋がる国民性、人間性を垣間見せられている気がする。


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写真は朝日新聞社刊行の「鳥獣虫魚歳時記」から拝借しました。

「不貞寝」

臍曲がる日向日陰や小六月

外に出て遊べとばかり鳴く笹子

冬眠も叶はず動物園に不貞寝

冬虹へ走り出したるフラミンゴ

ペリカンが雪を汚して奪ひ合ひ

雪の海へ放り投げたる海星かな

捕らへたる鼠溺るゝ初氷

北風に驕り高舞ふ鳶の笛

人参を絡めとりたる象の鼻

寒猿や湯にも浸かれば団子にも

小春日の埃はらふや驢馬の耳

海豹の滑り込んだる冬怒涛

ゴリラとも思へぬ冬のゴリラかな

掻き曇る比叡下ろしや猿の声

月影の駱駝の息や黒かりき

冬鳥の止まりて憩ふ犀の角

雪の来る音の聞こゆるキリンかな

白鷺の棒立ち己が影もなし

凍星の向かうへ牛を売りに行く

鰰の来る頃といふ夜の風









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