再生への旅

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zoom RSS 禅・その寛容なるもの

<<   作成日時 : 2017/12/17 04:35   >>

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花舗の灯もそぼつ金沢しぐれかな 玉宗

NHKテレビでヨーロッパに広がり始めている「禅仏教」の実体を放送していた。その中で外人の出家者がおおよそ次のようなことを述べていたのが印象的だった。

「禅の教えでもある寛容の精神が現代社会を繋ぎ、再生させるのに必要なのではないかと思っています」

「寛容」という言葉が私には以外でもあった。なるほど「寛容」であるか。
嘗て私はブログで以下のような記事を書いたことがある。

「触媒を使い異なる有機化合物を結合させる技術を開発した研究者にノーベル化学賞が贈られ、「クロスカップリング」と呼ばれる化学反応が注目を浴びた。

数日前の北国新聞には青木新門氏が、『十七条憲法』の第一条に「和を以って貴しと為す」という聖徳太子の建国精神について書いていた。元は「礼記」儒行の中にあることばだそうだが、仏教の教えが柱となっていることを指摘している。それは既によく知られる所であるが、「クロスカップリング」に擬えて、「仏教」が争いの絶えない人間社会の平和への触媒になれないものかと期待を寄せている文章が載っていた。仏教詩人らしい目の付けどころである。

争いのない社会、それを個人の内面からアプローチしていこうというのが仏教だと私は思っている。「平和」という「共通の理想」が先行するのではなく、私の中に「争うことは意味のないものだ」という諦念が根のように育まれていなければならない。「戒律」とはそもそも自己に随順し柔軟心を養い身につけるものではなかろうか。私が私の命に親しみ、深まりゆく生き方。そして、あなたも。というのが仏教のスタンスではなかろうか。そこには「争う」理由が本来的に存在しない。

誰も私に代わって私の命を生きてはくれない、という絶対的な条件は皆同じである。同じ条件ながらどうして争いが起きるのか?「争い」は執着するべき「自分」を認めるから起こるのであろう。在りもしない「私」という幻影に酔い、身を焦がすのである。そのような思いは思いだけでは済まない。行為を伴い具体的な結果となって我が身に還り人を傷つける。「思い通りにはならないが、やったようにはなる」

自己を虚しくして観察すれば、現実は「俺のもの、おまえのもの」という強引で、二者択一的な生き方とは大分様子が違う。自己が自己に落ち着き、「わたし」という「のぼせ」を冷まさなければ、「平和・正義・主義・主張」という「集団的幻影」に暴走するのは目に見えている。仏教という「教え」が「平和」の触媒となるかならぬか、それはどこまでも私一人の命への深まりに関わっている問題である。


「禅」が「寛容」なるものだというのは単なる精神論ではない。自己の「生き方そのものだ」といいうことを再確認しておきたい。

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「せつせつと」

誘はれしまゝに襤褸市うろつきぬ

蓮根掘腰から下がよく冷えて

せつせつと星は泣き濡れ雪下し

燎原もならず鶏頭枯れにけり

兎の瞳なみなみとして昏かりき

厭な奴が隣りに坐る年忘れ

白鳥の無垢なる色にたじろぎぬ

風に舞ふ雪のきらめき葛晒す

雨音のやがて消えゆく寒さかな

しんしんと一人冷えゆく夜の底

埋火や明日は素直にならうと思ふ




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