再生への旅

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zoom RSS 生老病死に向き合う

<<   作成日時 : 2017/12/18 05:17   >>

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雪のせて首垂れたる実南天 玉宗


私は時々、お坊さんとして、隣人として、偶には親族として「死者」と向き合うことがある。
「死」に関わる者ではあるが、どちらかと云えばそれは非日常というより偶に訪れる人生の節目という日常である。「死と向き合う」とは「死ぬゆくものと向き合う」ということである。それは「死」に代表される人生の「生老病死」という「無常なるもの」を端的に表している「.いのち」の現物と向き合うことである。「生老病死」それは私の思いを離れた因縁の様子そのものである。そのような私意を離れた実相に執着することなく生きて行く方便を模索し、実践しようとするのが仏道であろうと思っている。

だれも私に代わって私のいのちを生き、病んで、老いて、死んではくれない。そして、いのちは、「私」と云う観念に極限され左右されるものではない。いのちはそんな矛盾を孕んだ不思議な反応態である。そのような「とらえどころのない「いのち」と向き合ってぶれることなく「今」を生きてゆく。そういうことからすれば、「わが生」を有り難がるように「わが老い、わが病、わが死」も又有り難がたがらなくてはなるまい。自己の正体を知見し受け入れるのに、「生」そのものではなく「生の享楽」つまり「欲望」の方ばかりに比重がかかり過ぎてはいないだろうかと時に危ぶむのである。

お坊さんは本来「いのちの全うさ」と向き合い、説かなければならない。共感しなければならない。いのち哀れまなければならない存在だと思っている。「煩悩」は「いのちの全うさ」を掛け離れようとするように見える。仏道は「いのちの一貫性」という大所から人生を再生しようとしているだろう。「煩悩」を先立てない所以である。「日常性」の只中であるべき「いのちの全うさ」を求め、人生の一大事に向き合っていきたいものである。


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「果て」

つれづれなるまゝに果てゆく暦かな

暦売り明日をも知れぬ顔をして

恙なきしづけさにゐて賀状書く

七とせは会はぬ従兄の歳暮かな

煤逃のこともあらうに交番に

雪掻いて無駄骨らしきもの残る

地のものを地べたにならべ年の市

繰り返す腰の重さよ年用意

人を焼くときはうつろや冬夕焼

雪晴や生乾きなる日のにほひ

白鳥のうら淋しさよ旅に汚れ

蒼ざめし雪のゆふべが来てゐたり

日記買ふほかに用事もなかりけり

ともかくも生きたる日記果てにけり










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