再生への旅

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zoom RSS 身もふたもない、一休という生き方

<<   作成日時 : 2018/01/03 06:45   >>

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三ガ日風の如くに過ぎにけり 玉宗


世に喧伝された一休さんの道歌がある。

門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし


自由奔放で、奇行が多かったと言われる一休さん。
一日、一年、十年、一生。人は時の節目をいやが上にも自覚する。明日知れぬわが身ながらも、命永らえて迎える今年の正月。「めでたい」という情緒を一休禅師だとて否定するものではなかろう。彼はそのような人の世を皮肉るようなへそ曲がりだったのだろうか。虚無観という思想を弄んだのだろうか。

そうではあるまい。「めでたい」という事の真相がどこまでも私的に偏り、目を晦ますものであるならば、それもまた煩悩の地平線上、輪廻転生の因縁となる。一休は先導してそのような自縛を断ち切り、「今」を十全に生きる典型たらんとしたのではないか。そんな禅師の純真さが当時の「めでたい僧侶や民衆」には奇行とも見えたのであろうし、こころある者には警鐘ときこえていたのだろう。

一寸先が闇であるのは一休さんに指摘されなくとも人生の真相であるのは誰でも知っていると云うであろう。先の当てにならない闇の人生であるからこそ人は光りを求める。問題はそこから先の話である。「莫作・ 奉行」というべき無私にして手垢のつかない「今」がある。生きるとはそのような「今」の繰り返しである。そのような実相は未曾有の大震災に遭った現代でもなんら変わらない。

「めでたくもあり めでたくもなし」とは中途半端だと言っているのではなかろう。一見身もふたもないことを言っているのではあるが、私の生き方一つで「今」は極楽にも地獄にも展開するのだと諭していると思いたい。




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「三」

初詣三々五々と賑はへり

わがままに飽きてしまへり春着の子

裏白の反りも三日ぞ風もよひ

俵子の人を喰ったる味かとも

屠蘇祝をみな謎めくことをして

ごろ寝して根太こさへし三日かな

寝積や牛の心地がしてならぬ

三日はや即席麺に湯を注ぎ

数の子の味な歯応へなりしかな

三ガ日風の如くに過ぎにけり

捨て置けぬごまめの乙な味なりき

ふたりして生きて来たりし雑煮かな

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