再生への旅

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<<   作成日時 : 2018/04/15 03:46   >>

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總持寺の寺領に暮し花に老い 玉宗

義姉が先日来から大本山總持寺の授戒会に行っている。今月下旬に控えている大本山永平寺の授戒会には弟子が研修と法助を兼ねて拝登する予定だ。

さて、戒とは何か?

「仏戒とは大地有情同時成道と制止することなり」

戒とは単なる抑制ではない。
仏法という命ありのままの戴き方の話しであり、命の根っこからのなりゆきでなければならないと思っている。あれをしてはいけない、これをしてはいけない。ああしろ、こうしろ、といった倫理、道徳という人間界隈の次元で済まそうとしても決着できない欲望の始末の仕方がある。根本からの決着を期している人間の智慧がある。世界と一体であるが故の無私。無私なるが故の一体世界。私とかあなたとかという我他彼此のないところ。執着や拘りのいらないいのちありのままの様子がある。

不殺生というもありのままの命には殺生に執着する理由がないのである。不妄語というも一体である命には嘘をつき人を騙す値がないのである。不戯論というも比べられない命には戯論する甲斐がないのである。
一事が万事、私の執着を越えたところで生きている今の命の事実がある。その端的に帰る。帰命。この目覚めを授戒とは言うのではないのかな。

命に箍を嵌めることでも、嵌められることでもない。どこまでもわがいのちの解放、内外放寛への歩みであろう。思えば、人間とはどれほど命を浪費し、無駄にしていることか。執着、無明といった足ることを知らない欲望。そのような欲望が人生の主人公になってはいないか。私がいてもいなくてもなんともない、なにがあってもなんともない、欲望を越え誤魔化しの利かない、そうであるからこそののびやかないのちの世界。仏弟子とは本来そのような領域に身も心も委ねて生きているもののことである。

「授戒会」とは一般檀信徒を対象に、そのような戒の本義に添った仏弟子のまねごとをしようとするものである。まねごとではあるが疎かならない。まねごとと言えばお坊さんの日々も仏道のまねごとの日々である。この本質に在家出家の違いはないであろう。このような法要を機会に出家者もまた自己の「まねごと」の真偽を点検し、自分が如何ほど仏道の典型足り得ているかを学ばさせて戴くに越したことはなかろう。

「懺悔・さんげ」とは罪を悔い改めることであるが、戒を授かるにあたって当然の事として戒を受けるべきこちら側のあり様が問われている。仏道はありのままに生き生かされることには違いないのであるが、煩悩まるけのままでいい訳がない。自己という器に仏法を授かるには器がある程度空っぽであるに越したことはない。理想的には底なしの空っぽ状態が望ましかろう。故に真の懺悔とは口先だけの話ではない。身と口と心からの自然な成り行きであるのが本来であろう。そのなりゆきとは、妄想や執着の実体の空なることの目覚めということ。本来空の実体に目覚めて生きる、それをしも仏戒とは言いたい。

戒を授かる前提としての懺悔とは言うものの、それはあくまで理屈であって、その実際は授戒と懺悔は同時行である。どちらもいのちの目覚めの機縁を角度を違え、方便して語っているに過ぎない。懺悔した、授戒したといっても、いのちの実際に段階がある訳でもない。いのちはいつも全分的に躍動している。得てして、私が懺悔した、私が戒を授かった、私が悟った、私が仏法を体現している、などという屋上屋を重ねるが如き見解の愚かさに堕しているのを見かける。というより、わたくし持ちの見解を持ち歩いていると言うべきか。これをしも、裸の王様、偶像崇拝とは言うのである。

仏道はどこまでもこだわりのない、ひろやかな命の地平を歩むものでありたい。
冷暖自知とは命の真相、実体は誤魔化しの利かない世界を生きているということを語っていよう。冷暖ばかりではない、迷悟も、生死も、凡そ二律背反する命の矛盾さ加減という代物は自己にしか解り得ないものであり、且つ、そうであるからこその救い、成仏なのであると言いたい。

そのような次第であってみれば、仏道とは自己究明以外の何ものでもない。自己を生きるのは自己のみ。この極めて当たり前な事実を私は逍遥と頂いていきているだろうか。この極めて絶対的な命の事実を知足して生きているのだろうかということだ。自己の仏道の歩み具合を顧みた時、その余りにもお粗末な道行きに唖然とするのが常である。そのたびに何遍でも懺悔を繰り返す。仏の顔も三度までどころではない。生きている限り懺悔を繰り返しながら一歩でも仏道を進もうと心掛ける。それがそのまま、半端な私と言う人間の生きる意義、人生の醍醐味となっているのである。




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「煙突の空」

遠目にもあれは確かに茎立菜

春の汀にうち寄せられし愁ひかと

菜の花に囲まれてゆく苫屋こそ

煙突の空は暮れゆく燕かな

水芭蕉流浪の民のごとくして

總持寺の寺領に生きて花に老い

蒲公英や同胞はみなちりぢりに

毎日が日曜父の芝桜

木蓮や花のともしび風にゆれ

春泥の冥途に足を曳かれけり

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