再生への旅

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zoom RSS なんにもならない修行だからいい

<<   作成日時 : 2018/04/18 04:54   >>

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山寺や鐘の音にも逝く春の 玉宗

嘗て、「近頃の坐禅は色付きや味付きばかりだ。我々は無色透明の坐禅をしなければならない。」と諭された宗門の老師がいた。

ここにある「坐禅」を「修行」とか「教化」といった言葉に入れ替えてみたくなる。自分は「無所得、無所悟」の「行」に終始しているだろうか。宗門の命脈である「本証妙修」を手前勝手な地平に引き摺り下ろしてはいないだろうか。「只管」だろうか。「非思量底」だろうか。

「坐禅は何にもならん」と喝破した老師もいる。
「何かになる」事自体が間違いであるし、「求心」さえ「放下」しなけれなけば、それは宗門の「坐禅」「修行」ではない。見返りや当てを求めてはいないか。それはもう殆ど商人である。「仏法は無量無辺、小さなお前の思いを物足りさすようなもんであるわけはない」とも言われる。

「仏法は仏法のためにすべきこと」とは高祖様のお言葉である。
真実の「行」は「私」という「思い」を越えている。越えていなければならない。わが身ひとりを大切に慮る者にとっては「なんにもならない」という受け入れがたい事実そのものが「行」の「真偽」を担保している。名聞利養、毀誉褒貶など問題外である。

いつも、今、ここに、「私無きところ」を只管戴いていかなければならんね。それを解脱とはいうのではにのかな。脱落、脱落。



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「道草」

踊子草道草覚え初めし子の

睫毛濡らして朝の杉菜を見てゐたる

驚いて飛び翔つ雉子人も驚く

芝桜夕日が丘といふ町の

先を急ぐ春の小川やぺちゃくちゃと

俯きし花に翳ある貝母かな

山寺や鐘の音にも逝く春の

裏に摘む春椎茸の五六枚

能登は今種漬花を鋤き込んで

空に影して通草の花の暗きこと

海棠の紅濃き花の莟かな


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