再生への旅

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zoom RSS 私が消しゴムになればいい?!

<<   作成日時 : 2018/04/20 05:06   >>

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愛されずして一人静かに花となり 玉宗

「私が消しゴムになればいい」

これはある瞑想家の言葉である。苦悩の根本原因とは「わたし」という線引きをするからだろう。その線引きを消しさることが瞑想の力でもあるという。マインドフルネスという対処法も、私という枠組みを開放する手立ての一つではある。勿論、坐禅もまた自己を消し去る方便である。

「消しゴムになる」というところから窺えるのは、「消す」というアクションがこちら側に予定されているように聞こえることだ。それを「作為」といっていいのか、または「自力」と言ってもいいのか。坐禅もまた、只のんべんだらりと坐っていい訳もない。そこには、少なからぬ「功夫」と伝えられてきているものがある。

宗門の「無所得」「無所悟」といった求めることをしない「只管打坐」「純粋坐禅」というものも、「坐・解脱・脱落」へ向かうに当たっての、こちら側の姿勢、覚悟を言っている。「坐」の当処に「功夫」がないのではない。そしてそれは、年季を積むことによって自家薬籠中のものとなるであろう。

「消しゴムになる」という言葉のレトリックに引き摺られないで、「消し去る功夫」の延長に彼岸がある。それは如何にも「頓悟」ではなく「漸悟」の響きがあるのだが、修行の実際のところは「頓漸一如」というところが真相ではないのかな。

「釈尊菩提樹下の打坐」を「信」としてのわれらが宗門の「坐禅」ではあるが、その当体が「信」の「坐」であるかどうかはだれも証明できないのではなく、師資相伝、面授を面目としている「禅」に於いては、その「法灯」が受け継がれて今に至っているという矜持、前提がある。

「本物の消しゴム」であるかどうか。だれが判別できるか。おそらく、「本物」だけがそれを見抜けるだろう。それはどの世界に於いても同様の以心伝心なのであろうと思う次第。




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「毛」

後朝の睫毛濡らせし霞かな

ぶらんこやだれも相手をしてくれず

さうじやない剪定はかうしてするんだと

韋駄天の閼伽に浮きたる朧月

逝く春や鼻毛の手入れ懇ろに

鶯やこのごろ調子良さそうに

遠足や家の貧しさ思ひつゝ

花散りて腋毛のやうなもの残る

目を借りに能登も和倉の辺りまで

誰待つとなけれど風の光りかな

馬糞海胆さながら脛毛だらけなる

浦凪いで鏡なしたる若布刈舟

眉毛吹く風にも夏の近きこと










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