再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 曲り真っすぐ?!

<<   作成日時 : 2018/04/22 03:15   >>

トラックバック 0 / コメント 0

画像


蒲公英の横に坐れば見ゆるもの 玉宗

なんだかんだと四月も下旬。總持寺祖院僧堂にも新到さんが上山して来ているようだ。又、見慣れた古参の雲水さんが修行の年季を済ませ、その姿が見えなくなったことに気づく。初々しい修行者たち。私にもあのような無心に修行をしていた時期があった。懐かしくもあり、頼もしくもあり、羨ましくもあり、もどかしくもあり、そしてなんだか、痛々しくもある。

私は在家の身からお坊さんになったのだが、出家することは見た目には髪を剃るだけの、謂わば、あっけないものである。しかし、出家を決意するまでには、様々な思いを巡らし迷ったものだ。それは知らない世界への旅立には違いなかったから。そして、正直に言えば、わが出家の動機には「逃げる」という潜在意識のようなものがあった。

然し、強がりで言うのではないが、そのような「逃避行」自体を私は後悔してはいないし、世間から嘲笑されるべきものとも思ってはいない。此の世にはなんだか知らんが、「出家」という文化的世界があった。今もある。社会を落ちこぼれた中途半端な人間が、それでもなお人生の意義を見出すために、宗教の領域で生まれ変わろうとしたのである。だれもが生きるために人生の選択を余儀なくされている。その選択にはだれもがかけがえのない人生を賭けている。そして、歩み続けることによって、自己からは決して逃れられないことを知ることになる。

それにしても、この世界で生きて四十年になろうとしている。
未だに自己の至らなさに気付かされる日々だ。私が出家して間もなく、あるお坊さんからこんなアドバイスを貰ったことがある。

「曲がり真っすぐ行くんだよ」

折につけて思い出した言葉ではある。それは、曲がりなりにも道を歩み続けることの尊さを教えていた。あっちにぶつかり、こっちで迷い、それでも自己を見捨てず、前を向いて、仏の方を向いて生きて来たつもりである。志というには余りに手前勝手で、お粗末なものかもしれないが。

一般にも「初心忘れるべからず」と言われる。お坊さんの世界でも「発心」とか「菩提心」と謂われる心根がある。「発心」も「菩提心」も、「己をむなしく生きること」に欠かせない心術であろう。おのれ空しければ、実になんともない、おのづからなる世界が展開していることに気づかざるを得ない。思えば、「道」そのものに「曲直」はない。あるのは私に拘る「こちら側の方」である。ということであれば、私が「曲がり真っすぐ」に来れたのも、「道」そのもに引っ張られ、助けられたというべきだろう。

ところで、このような次第はどの社会でも同様の真相だろう。
生きるとは具体的な、それでいてなんとも言いようのない代物ではある。生業は違っても上に述べたようなことは「道」を歩むことに於ける「公然の秘訣」には違いない。曲がりなりにも生きていくことを恥じることはいらないが、自己を見捨てず、買いかぶらず、自己の真相を見極める、濁りのない、まっすぐな眼力が試されていることを忘れてはならないだろう。どこまでも徹底して「空なる」ことだけが自己の究極の救いであるのだと思う。




画像



「木漏れ日」

花は葉に木漏れ日生まれ始めけり

花くわりんさながら音を立つるかに

花苺きれいな風の吹くことよ

台無しの顔して亀の声を聴く

何食はぬ顔して目刺喰うてをり

明日知れぬ顔して雉のうろつきぬ

チューリップ裏表なきあかるさの

蕗の葉やまだ手のひらの大きさの

大手毬まだ色なさぬさみどりの

満天星の千の鈴降るさゆれかな

焼跡に日の差してゐる蕨かな

風にやや倒れし影の挿木かな

陽炎のあちらに母を捨て置きぬ

蜃気楼こちらの我がうろちょろと

蒲公英の絮をどちらへ吹き消さう

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
曲り真っすぐ?! 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる